| ■1943 | 生い立ち〜音楽への目覚め 1943年2月24日、リヴァプール生まれ(出生届上は 25日)。父親の名前はハリー。職業はバスの運転手だった。母親の名前はルイーズ。ジョージは4人きょうだいの末っ子。せまい家に6人家族という、典型的なワーキング・クラスの家庭に育ったジョージだが、家族は全員、パーティーや音楽好きの明るい家庭だった。折しもスキッフル・ブームが訪れ、兄ピーターのギターに合わせて洗濯板を鳴らすのが、ジョージの初めての楽器体験となる。母親の援助で友人からギターを購入し、ジョージは13歳で兄ピーターらとともに「レベルズ(反逆者たち)」というバンドを結成する。 |
| ■1960 | クオリーメン〜ハンブルク バスの中で出会った同じ学校の上級生、ポール・マッカートニーの誘いでジョン・レノン率いるクオリーメンに加入したジョージだが、いつもギターに触っていたいという情熱を満たすため、以前から在籍しているバンド、レス・スチュアート・カルテットも辞めずに活動に勤しんだ。母親の強力な支援もあり、ジョージは早くからギタリストとしてプロになることを決意していたという。1960年、ジョン、ポール、ジョージ、ピート・ベスト、スチュアート・サトクリフのメンバーで「ビートルズ」となったバンドは、ドイツのハンブルクへ巡業に出かける。ときには8時間以上、夜通し演奏することもあったが、ジョージには苦にならなかった。ギターの腕も上達していくと同時に、ビートルズもワン・ランク上のクラブで演奏できることになった。すべてが順風満帆に思われた矢先、17歳だったジョージが未成年者不法就労の罪で逮捕され、国外退去となってしまう。のちに、ポールとピートもあらぬ罪を着せられて国外退去、ジョンも結局、リヴァプールへ帰ってくることになる。疲れ果てて、バンド活動に失望するジョン。音楽を見切って工場の職に就いたポール。しかし、ジョージはビートルズの成功を疑うとことはなかった。ジョージはジョンとポールのもとを訪れ、必ず成功するからやり続けようと励ましたという。 |
| ■1962 | ビートルズ・デビュー〜ギタリストとしての成長 1962年、ビートルズのデビューにあたり、ドラマー交代劇があるが、ハンブルク巡業で親しくなったリンゴ・スターを強力にプッシュしたのはジョージである。ジョージとリンゴの友情は厚く、生涯続くこととなる。デビュー・シングルをレコーディングする初のセッションで、「何か気に入らないことはある?」とたずねるプロデューサーのジョージ・マーティンに対し、緊張するジョンとポールを尻目に、ジョージが「あんたのネクタイが気に入らない」と言ったことで場が一気に和んだという有名なエピソードが残っている。何よりもギターを弾くのが優先で、オリジナル曲にさほど興味を示さなかったジョージだが、版権管理者の勧めで曲を書いてみることに。ソングライターとしてデビューするのは、1963年に発表されたセカンド・アルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』収録の「ドント・バザー・ミー」である。次作『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』(1964年)では12弦ギターを導入、ここで一気にビートルズ・サウンドをほかの音楽と差別化することに成功する。『ビートルズ・フォー・セール』では影響を受けたチェット・アトキンスやカール・パーキンスのギターを完全にものにし、『4人はアイドル』(1965年)では自作曲「アイ・ニード・ユー」でのボリューム奏法など、新しい技術を模索、さらにソングライターとしても前述した曲と、もう1曲、「ユー・ライク・ミー・トゥ・マッチ」を発表した。2本の主演映画(『ハード・デイズ・ナイト』〈1964年〉、『ヘルプ! 4人はアイドル』〈1965年〉)で監督を感心させたジョージの俳優としての自然な演技も見逃せないだろう。 |
| ■1965 | シタール〜インド 映画『ヘルプ!』で劇中の小道具として使用されていたインドの楽器シタールにジョージは興味を持ち、1965年の『ラバー・ソウル』収録の「ノルウェーの森」で、ロック・ミュージックに初めてシタールを導入する。さらに翌1966年には、インドのシタール・プレイヤー、ラヴィ・シャンカールと運命の出会いを果たす。人間的にも波長の合ったふたりのつきあいは生涯続くことになる。そして、同年に発表されたアルバム『リボルバー』では、自作曲「ラヴ・ユー・トゥ」に大胆にシタールを入れ、のちのラーガ・ロックの原型を作った。しかも、このアルバムには前述した1曲と、「タックスマン」、「アイ・ウォント・トゥ・テル・ユー」と、ジョージの楽曲が3曲も収録されている。そして、「インド音楽を感じるにはインドを訪れるべき」というシャンカールの教えを守り、インドでシャンカールにシタールの教えを受ける。 1967年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』では、インド楽器だけの本格的な作曲(「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」)に挑んでいる。折しもフラワー・ムーヴメントが起こり、ジョージはビートルズのメンバーのなかではただひとり、ヒッピーの本拠地、サンフランシスコのヘイト・アシュベリーを訪れている。しかし、そこではドラッグづけの若者たちが寝そべっているだけで、ジョージは幻滅し、帰国する。あれだけ求めたバンドの成功が、ジョージの心には今ひとつしっくりこなかったため、ジョージはショー・ビズ界に疑問を持ち、絶えず人生の意味を探し続けた。そんな折、妻パティの勧めでマハリシ・マヘシ・ヨギなる人物の講義を聴きに行き、超越瞑想の存在を知る。ジョージはこれをビートルズのほかのメンバーにも勧め、結果的にビートルズ全員で瞑想修行に出かけることになる。翌1968年にはビートルズは瞑想修行でインドを訪れるが、マハリシに幻滅して帰国することに。しかしジョージはその教え自体は肯定し、「瞑想体験をして、祈りの力を信じるようになった」と語っている。ここから、ジョージとインドの精神世界とは切り離せないものになっていった。 |
| ■1968 | ビートルズ解散〜ソロでの成功 シタールの修行は一生かかるということを知ったジョージは、再びギターへと回帰していく。1968年の『ザ・ビートルズ』収録の「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」では友人のエリック・クラプトンを招き、ジョージとクラプトンは影響を与えあった。実質的にはビートルズのラスト・アルバムである『アビイ・ロード』(1969年)には、ソングライターとして完成したジョージの楽曲が収録され、「サムシング」がジョージ初のビートルズのシングルA面曲となった。また、このアルバムではムーグ・シンセサイザーを導入。ビートルズ・サウンドのさらなる可能性を掲示した。ビートルズのレコーディングではレノン=マッカートニーの楽曲が優先される傾向にあったため、ジョージは未発表の曲をたくさん抱えていた。それでも、ジョージは「ビートルズを存続させたうえで、ソロ・アルバムを出したほうがいい」とほかのメンバーにも話していた。しかし1970年、ポールの脱退宣言によりビートルズは崩壊。ジョージはその日、ビートルズのヒストリー映画『ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード』(のちの『アンソロジー』)を観て過ごしたという。未発表曲をも一気に放出した1970年のアルバム『オール・シングス・マスト・パス』で、ジョージはビートルズのメンバーのなかで最初の大成功を収めることになる。独特の美しい旋律を持つ楽曲はもちろんのこと、スライドというテクニックを習得したギターは、ジョージのトレードマークとなっていく。 |
| ■1971 | ダーク・ホース・レーベル 1971年にはロック・チャリティ・コンサートの先駆けと言える「コンサート・フォー・バングラデシュ」を成功させ、続いて1973年に『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』発表。このアルバムはジョージの作品のなかで最も宗教色が強く、ストイックな内容となっている。このアルバムの内容と同期して、ジョージの私生活も非常にストイックなものになっていった。煩悩を断ち切ろうと孤独にひきこもるジョージに、妻のパティはついて行けなくなり、以前から思いを寄せ合っていたエリック・クラプトンのもとへ走る。しかし、ふたりの幸せを考え、ジョージは快く祝福。ジョージとクラプトンの兄弟のような関係は生涯崩れることはなかった。 1974年にはビートルズ時代、アップル・レーベルで考えていた思想を活かし、若手やインド音楽のレコードを世間に広めるために、自身の「ダーク・ホース・レーベル」を発足させ、その名も『ダーク・ホース』というアルバムを発表。1975年に『ジョージ・ハリスン帝国』、1976年に『33 1/3』を発表、さらにビートルズ時代とアップル・レコード時代を総括するベスト・アルバム『ザ・ベスト・オブ・ジョージ・ハリスン』を発表した。1977年は新しい伴侶であるオリヴィアとゆっくり過ごすために1年間音楽活動を休止、1979年初め、『慈愛の輝き(』で復帰する。このアルバムは、オリヴィアの存在と息子ダニーの誕生を反映して、穏やかな流れを感じられる内容に仕上がっている。1980年9月、ジョージはジョンとヨーコと一緒にモンティ・パイソンのコンサートを観る。ジョージはそのとき、ジョンに新しいアルバムとなる『想いは果てなく−母なるイングランド−』のテープを渡すが、12月にジョンが死去、翌年1981年に、ジョンへの追悼曲「過ぎ去りし日々」を収録し、発表した。同曲には、リンゴとポールも参加して話題になった。 |
| ■1987 | 『クラウド・ナイン』〜日本公演 1987年には「史上最大のカムバック」と呼ばれたアルバム『クラウド・ナイン』をリリース。シングル・カットした「セット・オン・ユー」が全米1位に輝いた。1988年にはボブ・ディラン、ロイ・オービソン、トム・ペティ、ジェフ・リンらとトラヴェリング・ウィルベリーズを結成した。1991年には待望の日本公演を実現。エリック・クラプトンとともに来日を果たし、ビートルズ時代を含む、自身のキャリア集大成となるコンサートを披露した。このコンサートのもようは、アルバム『ライヴ・イン・ジャパン/ジョージ・ハリスン with エリック・クラプトン and ヒズ・バンド』で聴くことができる。ステージでもみごと復帰したジョージは、翌1992年にはカール・パーキンス、ゲイリー・ムーア、ボブ・ディランらのコンサートに飛び入り、さらに、TOTOのジェフ・ポーカロ追悼ライヴにも参加。これはジョージの交流関係の広さをよく表している。クラプトンと組んでロイヤル・アルバート・ホールでもコンサートを行ない、この年は盛んに活動している。きわめつけはビートルズ自身が語るビートルズ・ヒストリー、アンソロジー・プロジェクトが始動したことで、これはCD2枚組3セットのアルバム『アンソロジー』と、DVD BOXで観ることができる。 |
| ■1990 | 闘病生活〜死 喉頭癌が心配されていたジョージは、1990年代半ばを過ぎたころから、数回にわたり癌治療を受けている。1998年に「癌は治療され、再発の恐れはない」と発表された。そんな折、1999年12月にジョージの自宅、フライアー・パークに何ものかが不法侵入。ジョージは家族の安全を思い、男を取り押さえるも、刃物で数か所を刺され重傷となった。犯人はヘロイン中毒者で、ビートルズを悪魔と思っていたという。この事件は真っ先に1980年のジョン射殺を思い起こさせ、人々を震撼させた。ジョージは入院中に年を明かし、2000年1月1日に退院、心配してくれた人々へ感謝の言葉を表明した。CDのリマスターに非常に興味を示していたジョージは、2001年に『オール・シングス・マスト・パス〜ニュー・センチュリー・エディション〜』を発表、さらに、マイ・ペースにニュー・アルバムのレコーディングに入る(2002年に『ブレインウォッシュド』としてリリース)。しかし2001年、ジョージが今度は肺癌の治療にあたっていると報道があり、ジョージがジョージ・マーティンに「自分は癌で、もうすぐ死ぬことを覚悟している」と語ったと報道され、さまざまな憶測が飛び交うことになる。11月にはポールとリンゴが見舞いに訪れ、これが3人が顔を合わせた最後となった。 11月29日、オリヴィア、ダニー、ラヴィ・シャンカールに看取られ死去。58歳だった。2004年には、ジョージの遺志を継ぎ、ダーク・ホース・レーベル時代のソロ・アルバムがリマスター盤として生まれ変わり、発表された。 ビートルズ、そして世界の精神的柱だったジョージのメッセージは、その数々の楽曲のなかに詰め込まれている。 |