ナンバーガール大辞典(改訂版)
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【あ】
EYE-GANG(アイギャング)
95年8月、ナンバーガールのメンバーが初めて顔を合わせた、福岡の練習スタジオ。その時、向井はジャッキー・チェンのTシャツを着ており、初めて会った田渕は、それを見て「変わった人だなぁ」と思ったとか。
I don't know
映画「害虫」のテーマおよびオリジナル・サウンドトラックを収録したシングル。制作にあたり向井は映画の撮影現場まで出向き、イメージを膨らました。当初、監督の塩田明彦さんと音楽プロデューサーが描いていたイメージは、ジミ・ヘンドリックスかジョン・スペンサー&ブルース・エクスプロージョンみたいな感じだったとか。
あざみ荘
向井が上京したおり初めて住んだ、六畳一間、風呂無し、築40年のアパート。田舎から送られてきた米がネズミに食べられてしまうなど、とても渋谷とは思えない場所であった。その昔、元ザ・スパイダースの井上順が住んでいたこともあるという。
Attari Shock
96年2月、ナンバーガールが初めて音源を制作し販売したカセットのタイトル。収録曲は「Trumpoline Girl」「Young」「SPACE GIRL〜加速装置〜」「おおキャンディ」。4トラックのカセットで録音されたとは思えない完成度を持つ。まだギターポップ的なニュアンスが残っているのも感慨深い。
アヒト・イナザワ
1973年6月6日生まれ。福岡県粕屋郡出身。ひたすらに叩きまくるドラム・スタイルは人の目を引付けて離さない。面識はなかったものの、かねてからそのドラム・スタイルに惚れ込んでいた向井は、イナザワが以前参加していたバンドを脱退したとの噂を聞き、友人から教えてもらったイナザワのポケベルに連絡を入れ、返ってきた電話に「ヴェルヴェット・クラッシュ好き?」と訊いて勧誘したという。ザ・フー、ジミ・ヘンドリックス、ブルー・チアーなどをフェイヴァリットとするが、遊佐未森、コクトー・ツインズといったファンタジック系女性ヴォーカルも好むという一面もある。動物とサッカーと釣りを愛し、やかんでお湯の沸く音、盲人用信号機音、ホーミーなどの音模写が異常に上手いという特技がある。ナンバーガール解散後は向井秀徳とともにZAZEN BOYSに参加するが、2004年末で脱退。その後、イナザワがリーダーとなりヴォーカル/ギターを担当するVOLA & THE ORIENTAL MACHINEを結成。精力的に活動している。
URBAN GUITAR SAYONARA
2000年5月31日に発売されたシングル。向井が遊び半分でピアノを弾いていたらメロディー、アレンジが偶然に浮かんできたという。アルバム・ヴァージョンに入っているサックスは、スタジオのアシスタント・エンジニアがサックスを吹けるということで、その場の思い付きでダビングされた。カップリングの「真っ昼間ガール」は当初、東芝EMIの新人発掘スタッフを引っかけるために架空の女性シンガーのデモ・テープとしてスタジオで即興的に作ったもので、そちらは田渕が歌っている。
【い】
イースタン・ユース
向井はヴォーカル/ギターの吉野寿を人間的にも尊敬しており、某TV番組では彼らのアルバム「孤立無援の花」を来世紀に伝えたい名盤とコメントしている。中尾はアマチュア時代、福岡で彼らのライヴを観て、感動のあまりに翌日坊主頭にした。
今村昌平 
日本を代表する映画監督。向井は98年秋、近所のなんの変哲もない町の中華料理屋で、一人で食事中の今村氏に遭遇、声をかけるかどうか悩むが、結局出来ずに終わった。向井のオススメ作品は「復讐するは我にあり」。
【え】
エレファントカシマシ
バンド・ブームを嫌悪する向井が、当時唯一感銘を受けたバンド。整理しきれない人間の感情を、そのままぶちまける音楽性が理由だとか。福岡でのライヴも欠かさず行っていた。向井のエレカシ・ベスト・ソングは「ゲンカクGet Up Baby」(88年のアルバ ム 『THE ELEPHANT KASHIMASHI ll』収録)。
【お】
大鷹俊一
80年代よりパンク、ニューウェイヴをいち早く日本に紹介していた音楽評論家。向井は氏の書いたソニック・ユース、ピクシーズなどのライナーノートに、ティーンの頃大きな感銘を受けていたため、ナンバーガールのライナーノートを依頼した。
omoide in my head
97年に自主制作カセットの第2弾として制作された。収録曲は「omoide in my head」「california' 73」「センチメンタル過剰」。後のアルバムとはヴァージョン違いである。「omoide〜」が出来た時に向井は自分にしか出来ないオリジナリティーがこの作品にはあると感じたという。
親不孝通り
福岡市中央区天神にある約400mの通りの通称。飲み屋、クラブなどが乱立しており、週末は朝まで無軌道な若者たちがたむろする。この通りの近くにある予備校生が学校に通わずに遊んでしまうため、この名前が付けられたという。当初の名前は「天神よろず町通り」だったが、福岡市民でもその呼び名を知らない人は多い。ナンバーガールのメンバーもここで多くの青春の思い出を作ったという。名前のイメージが悪いため、今は「親富孝通り」と当て字を振ったものが正式名称となっている。
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【か】
害虫
2002年に公開された、塩田明彦監督、宮崎あおい主演の映画。ナンバーガールが音楽を担当。当初、塩田監督はナンバーガールのことをあまり知らず、音楽プロデューサーの推薦で起用したが、後に大ファンとなり、2005年の最新作「カナリア」のイメージはナンバーガールを聴いているときに閃いたと発言している。尚、「カナリア」のエンディング・テーマはZAZEN BOYSが担当している。
ガイ飲み 
グラスを持った手を相手の手とクロスさせ、自分の口につけ、両者同時に気合で一気に飲み干す。打ち上げで友情の証として行われる。3人でやる高度なヴァージョンもある。
カヴァー・ヴァージョン
ナンバーガールは初期から中期にかけてのライヴでよくカヴァー曲を演奏していた。もっとも知られているのはシングル「透明少女」のカップリングとしてレコーディングもされたピクシーズ「Wave Of Mutilation」。ザ・フー「So Sad About Us」、ラモーンズ「I Wanna Be Your Boyfriend」とブラッドサースティー・ブッチャーズ「プールサイド」は、『記録シリーズ1』にも収録されている。また、向井は福岡のトラディショナル・ソング「祝いめでた」を祝いの席で必ず披露する。
川島雄三
向井がもっとも愛する映画監督。63年没。向井のオススメ作品は「幕末太陽傳」(57年) 。
カプセル・ジャイアンツ
福岡時代から、良く活動をともにしたバンド。ヴォーカル/ギターの横溝礼央と向井は、福岡のバンド・シーンにおける二大酒豪であった。現在は活動を休止し、横溝はReo Yokomizo & neon groupとして活動中。
【き】
極東最前線
イースタン・ユースが主催するライヴ・イヴェント。念願の初出演は、99年9月の渋谷クラブクアトロで行われた際に実現。登場時に「イースタン・ユースを出せ!」と言った心ない野次を浴びたが、そんな客に対しイースタン・ユースの吉野寿氏は「さっきそんなことを言った客は帰れ!」と一喝した。2000年7月に発売されたコンピレーション・アルバム『極東最前線』には「TOKYO FREEZE」というナンバーガール初のヒップホップ・ナンバーを提供した。
【く】
クラムボン
メンバーのミトと原田郁子は、下北沢・シェルターで行われたナンバーガール初の東京ライヴに偶然居合わせたことが最近判明した。その後、とある打ち上げでナンバーガールとクラムボンが同席したところ、原田郁子と田渕ひさ子は、福岡女子高校の同級生であることが判明。また、アルバム『NUM-HEAVY METALLIC』レコーディングの際、中尾はミトのベースを借りて使用していた。
狂う目
ナンバーガールの公式サイト。サイト名は"久留米"の引っかけなのは言うまでもない。
宮藤官九郎
超売れっ子脚本家にして、ロック・バンド、グループ魂のリーダー。雑誌に載った彼のPCにナンバーガールのステッカーが貼ってあったことでファンであることが伝わり、その後親交を深める。ナンバーガールとグループ魂は、2001年4月の新宿・ロフトで初の対バンを果たしている。また、ナンバーガールはグループ魂のアルバム『RUN魂RUN』にコントと演奏で参加しているが、同作品がナンバーガールのラスト・スタジオ・レコーディングとなった。ナンバーガール解散後は、宮藤演出の舞台「ウーマンリブ」の音楽を向井が担当。初監督を務めた映画「真夜中の弥次さん喜多さん」ではZAZEN BOYSが音楽を担当しているが、このレコーディングがアヒト・イナザワ在籍時のラスト・レコーディングとなり、向井は「バンドの節目節目にクドカンがいる(笑)」と冗談めかして発言している。
久留米ラーメン
向井の故郷の味であり、日本で一番うまいと言う種のラーメン。久しぶりに帰郷し、食べたときには、そのうまさに思わず涙したという。向井のオススメは東久留米市にある「南京千両本店」。
クロッシングホール
向井がアルバイトでPA、照明を担当していた福岡市中央区の多目的ホール。ケン・イシイの照明を担当した際には、スタッフから「地方公演で一番良かった」と誉められ、ジョナサン・リッチマンのPAを担当した際も、本人から妙に気に入られたらしい。
【け】
けものがれ、俺らの猿と
町田康原作の小説。2001年に映画化され、そのサントラにはナンバーガールの書き下ろし「ZAZENBEATS KEMONOSTYLE」が収録されている。イラストも向井が担当した。向井も、自分が監督をするのであれば、この作品を映画化したいと思っていたらしい。
弦切り
向井が想像した妖怪。ギターを粗末に扱うとライヴ中に現われて弦を切り、持ち主の反省を促す。向井には良く現われるが、田渕には一度も現われたことがない。
【こ】
コズミック・チェリー 
田渕がナンバーガール以前に参加していたガールズ・バンド。中尾憲太郎、椎名林檎と知り合うきっかけにもなった。田渕によると「サイケとグラム……そうでもないかなぁ。良くわからないですね」とのこと。
54-71
限界まで音数を減らし、研ぎ澄ませたビートを聴かせるグループ。ナンバーガールが彼らのレコ発にゲストで出演した際「54-71の助太刀に来たナンバーガールです」とMCをした。のちに結成されるZAZEN BOYSの名称は、女性シンガーのhalが2001年に発表したアルバム『ブルー』で向井が作詞/作曲/プロデュースを手掛けた1曲「6階の少女」のレコーディングのため、54-71のメンバーと結成したバンドに由来している。ドラムスのboboはナンバーガール「CIBICCOさん」のプロモ・クリップでも役者として絶妙な存在感を醸し出している。
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【さ】
斉藤匡崇(さいとう・まさたか)
東芝EMIのレコーディング・エンジニア。98年にナンバーガールが初めて東芝EMI第3スタジオでデモ・レコーディングをおこなった際にアシスタントとして参加。それ以来、国内で行われるスタジオ、ライヴのレコーディングのほとんどを担当。ナンバーガールのほかにはdowny、惑星、ART-SCHOOL、BaseBallBearなどのレコーディングを担当。業界一ワガママなエンジニアとしても知られる。クイズ好き。
SXSW(サウス・バイ・サウス・ウェスト)
米テキサス州オースティンで毎年3月におこなわれる音楽見本市。全世界から900近くのバンドが集まり、5日間に渡って繰り広げる。ナンバーガールは99年と2000年の2回出演。99年の公演では、それまで「時間をオーヴァーしたら電源を落とす」と言っていた舞台監督が、鳴り止まない拍手に煽られてアンコールのOKを出した。また、その日のライヴに感動した店のバーテンが全員にビールを奢ってくれた。
坂口安吾(さかぐち・あんご)  向井が好む作家。無頼派と呼ばれる作家たちの一人。「ウェイ」「桜のダンス」など、ナンバーガールの歌詞の中にも、名前・作品名を見ることができる。向井オススメの作品は「不連続殺人事件」。
SAPPUKEI
2000年7月19日にリリースされた、ナンバーガール通算4枚目のアルバム。収録された「BRUTAL MAN」と「BRUTAL NUMBER GIRL」は、レコーディングの空き日に1日で作られた。「INAZAWA CHAINSAW」「TOURIMA RIDE ON ON」はミックスまで終了したが、その出来に納得出来なかった向井が「SLEEP」と言ったためオクラとなった。
サッポロOMOIDE IN MY HEAD状態
2002年11月30日に札幌・ペニーレーン21でおこなわれたラスト・ステージを収録したライヴ盤。
当初、通常のツアーの一貫として組まれていたライヴであったが、突然の解散発表のためにラスト・ステージとなってしまい、チケットはたいへんな争奪戦となった。エンジニアの斉藤崇匡は感極まり、ライヴ・レコーディング中でありながらダイヴを敢行するという、エンジニアとはとても思えない行動をとった。
騒やかな演奏
ナンバーガール初の映像リリース作品。通常のライヴ映像を作品化するのは面白くないという向井の発案のもと、レコーディング・スタジオに客を入れて収録しようということで企画されたライヴ。東京・赤坂の東芝EMI、7階の第3スタジオには抽選で選ばれた30人の観客が招待された。会場にはバー・カウンターも設置され、ブラッドサースティ・ブッチャーズのドラマー、小松正宏がバーテンダーを務めた。振舞われたタダ酒に泥酔する客も現れ、レコーディング・スタジオとは思えない不思議な空間となる。撮影後、参加者ほぼ全員で近所の居酒屋に移動。メンバーも参加し二次会となった。
【し】
椎名林檎(シーナ・リンゴ)
95年に田渕のバンドと椎名のバンドがコンテストで対バンしていたり、練習していたスタジオの電話番を中尾が担当していたり、向井が椎名のバンドの照明を担当したり、その親交はお互いがアマチュアだった福岡時代にさかのぼる。田渕は、2000年1月にリリースされた椎名のシングル「ギブス」のカップロング「Σ」、椎名プロデュースによるともさかりえのシングル「少女ロボット」のレコーディングに参加しているほか、2000年7月には椎名の期間限定バンド「発育ステータス」のメンバーとして4本のライヴに参加、その模様は3枚組ライヴ・シングル「絶頂集」に収録されている。 また、イナザワは椎名のアルバム『加爾基 精液 栗ノ花』収録の「迷彩」「意識」に参加している。尚、椎名はZAZEN BOYSのセカンド・アルバム『ZAZEN BOYS II』収録の「CRAZY DAYS CRAZY FEELING」「安眠棒」「You make me feel so bad」にコーラスで参加しているほか、いくつかのライヴでは飛び入り出演するなど、メンバーとはその後も良い関係を続けている。
シブヤROCKTRANSFORMED状態 
渋谷・クラブクアトロで99年10月1日におこなわれたステージを若干のMCを除き完全収録したライヴ・アルバム。ジャケットは実際に発行された毎日中学生新聞の記事をそのまま転用した。中ジャケには、福岡の居酒屋(ふとっぱら:後述参照)で大いに飲み、盛り上がるイナザワが写っているのだが、そのせいで翌日のライヴ終演後、過呼吸で倒れて台車で病院に運ばれた。
私立探偵濱マイク
94〜96年にかけて3作が公開された永瀬正敏主演の映画。2002年にTVシリーズが放映され、ナンバーガールのファンであった永瀬の依頼により、須永秀明監督による第5話「花」に出演。横浜のライヴハウスで演奏するシーンは、メンバーのこだわりから、あてぶりではなく実際に演奏していた。
新日本現代映画 
ナンバーガールの映像作品すべてを制作した団体名。メイン・スタッフは向井と映像ディレクターの遠藤雄二で、実体は無い。のちに向井がプロデュースを担当したhalのプロモーション・ビデオを制作。彼女がホテトルに扮し、客にチェンジされるという過激なもので周囲を驚かせた。
【す】
STAFF(スタッフ)
福岡市中央区桜坂にあるリハーサル&レコーディング・スタジオ。アルバム『SCHOOL GIRL BYE BYE』『SCHOOL GIRL DISTORTIONAL ADDICT』、シングル「DRUNKEN HEARTED」「透明少女」を、当時としても時代遅れであった8トラック・アナログ・レコーダーでレコーディングした。
SCHOOL GIRL DISTORTIONAL ADDICT  
99年7月23日にリリースされた、メジャー・ファースト・アルバム。福岡時代に使用していたスタジオ「STAFF」(さ行参照)において音決め1日、バック・トラック録り1日、ヴォーカル録り2日、ミックス1日という、とてもメジャーとは思えない期間および予算で制作された。東芝EMIのスタッフは、出来が悪かったら会社にはデモということで報告しようと思っていた。
SCHOOL GIRL BYE BYE  
97年11月に福岡のインディー・レーベル、automatic kissからリリースされた、記念すべきファースト・アルバム。一度廃盤になったが、99年2月に東京のインディー・レーベル、K.O.G.A.より再リリース。中尾と友人がバイトをしていたスタジオ「STAFF」(さ行参照)で、おもに夜中に忍び込んで制作したため、制作費はその友人に奢ったメシ代だけという伝説もある。この作品を、渋谷のHMVで「福岡でスボンズの前座をやってズボンズを食ったと評判のすごいバンド! 頭ひとつ抜けてます!」というようなことが書いてあったコメント・カードにつられて東芝EMIのスタッフが購入。メジャー・デビューのきっかけとなる。尚、Automatic Kiss盤のCD盤面の色には緑色と水色の2種類があり、プレス数の少ない水色がレアらしい。また、Automatic Kiss盤とK.O.G.A.盤はジャケのデザインとマスタリングが異なる。もちろん、前者が激レア。
STAND BOP(スタンド・バップ)  
福岡市中央区天神・親不孝通りそばにあるクラブ。向井は福岡時代によく通い、水色ガールを見出したという。その風景は彼らの楽曲「水色革命」で描かれている。
スーパーサッカーズ   
中尾がもっとも愛するロック・バンド。「モーターヘッドではハード過ぎ、ラモーンズではポップ過ぎ」というのが、その理由だとか。かつて中尾は、なんとか福岡に呼べないかと真剣に考えていたこともあるらしい。99年のSXSW(さ行参照)で渡米した際に念願の初ライヴを体験した中尾は、彼らのキャップとTシャツを着用し、「俺にスーパーサッカーズの霊が降りてきた」と言ってライヴに臨み、神がかりのようなパフォーマンスを見せた。
SUPER NOVA VOL.1 UNI
99年1月にリリースされた、ホッピー神山プロデュースによるコンピレーション・アルバム。収録アーティストはナンバーガールの他にキング・ブラザース、ex-girlら。ナンバーガールにとって初のメジャー・リリース作品となった本作には「SAMURAI」「ウェイ」の2曲が収録されている。ちなみに「ウェイ」とは中国語で"もしもし"という意味。
3D TOURS
福岡でおこなわれていたライヴ・イヴェント。イヴェントに参加したバンドの音源を収録した同名のコンピレーション・アルバムも制作され、福岡のインディー・レーベル、Automatic Kissより96年にリリースされた。ナンバーガールの楽曲は「Trumpoline Girl」「Space Girl 加速装置」の2曲が収録されており、彼らにとって初CD音源となった。尚、「Trumpoline Girl」は、のちのアルバム『SAPPUKEI』収録のものとは同名異曲。中ジャケの意味不明なアーティスト写真を見るだけでもファンには価値がある作品。
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【た】
田渕ひさ子(たぶち・ひさこ)
1975年12月9日生まれ。4人兄弟の末っ子として生まれた生っ粋の福岡っ子。中1のとき、兄のガット・ギターを手にする。初めて弾けるようになった曲はユニコーンの「ツイストで目を覚ませ」。それ以来、家に居るときは睡眠、食事、入浴時を除き、ひたすらギターの練習をしていたという。ティーンの頃、すかんちのファンとなり、それがきっかけでレッド・ツェッペリン、クイーンなどのブリティッシュ・ロックを聴くようになる。中学時代からギャルバンでの活動を途切れることなくおこなっていたが、ヤマハ主催のTEEN'S MUSIC FESTIVAL(椎名林檎のバンドも出場)に出場した際、会場で照明を担当していた中尾から、初対面にも関わらず一緒にバンドをやろう!と誘われる。中尾いわく、誘った理由は、田渕の立ち姿がキマっていたからだそう。その直後、中尾が向井からナンバーガール結成に誘われたため、ともに参加する。当時19歳。向井の第一印象は"おとなしい子"。当時、制縫工場で働いていた田渕は、とあるライヴの翌日に睡眠不足で出社し、自分の手をミシンで縫ったことがあるという。DIPと小谷美紗子のライヴには、スケジュールが許す限り出かけるほどのファン。いちばん好きな食べ物は餅。実はカラオケ好き。
その歌声は、2002年のNUM-HEAVYMETALLIC TOURの「NUM-HEAVYMETALLIC」で初披露され、ライヴCD-BOX『記録シリーズ2』で聴くことができる。ナンバーガール解散後はブラッドサースティ・ブッチャーズに参加。また、自身がヴォーカル/ギターを務める4ピース・バンド、toddleでも活動中。
タルボックス・ロード・スタジオ
バッファロー空港から車でおよそ1時間。ニューヨーク州フレドニアのカサダガという町にあるデイヴ・フリッドマン(た行参照)経営のレコーディング・スタジオ。フレーミング・リップス、マーキュリー・レヴ、モグワイ、ベス・オートンなども使用。山小屋を改造したスタジオの周辺は、鹿が出没したり、アライグマが轢かれて死んでいるほどの山の中で、フレイミング・リップスのウェイン・コインは、野犬に襲われたときのためにバットを持ってジョギングに出かけていた。ナンバーガールはここで『DESTRUCTION BABY』『SAPPUKEI』『NUM-HEAVYMETALLIC』のレコーディングをおこなった。泊まり込み、自炊が基本。ナンバーガールが持っていった電気炊飯器は現在も置きっぱなしのはずである。
【ち】
チェルシーQ
福岡市天神のライヴハウス、ハートビートで月1回おこなわれていた伝説のオールナイト・イヴェント。ナンバーガールとパニック・スマイル(は行参照)の共同主催で、93年から97年までのあいだに計44回おこなわれた。地元のバンドを中心としたイヴェントであったが、東京からもギターウルフ、野沢直子などが出演。95年8月、イヴェントへの出演が決まっていたナンバーガールは、ライヴ直前に向井以外のメンバーが脱退してしまったため、新生ナンバーガールを急造。そのときに集まったメンバーがのちの3人である。
ちかっぱい
「力いっぱい」の福岡弁。"すごい""たいへん"などの意味で使われる。例:(電話で)こん前さ、俺さ、ナンバーガールのライヴ行ったっちゃけどさ、えらい人多くてからくさ、もうさ、ちかっぱい多いと、人。そいでくさ、えらい俺、えらい具合悪かったったいねそん日。もうね、ちかっぱい気分悪くなってきたったい途中で。もう、行かんがよかった。 99年9月の福岡・ビブレホール公演後、過呼吸になったイナザワは「ちかっぱいヤバイ」と言ったまま昏倒。そのまま台車で病院に運ばれた。
Chappie(チャッピー)
デザイン・チーム、groovisionsが生んだ着せ替えキャラクター。99年にリリースされた彼女(?)のアルバム『NEW CHAPPY』に収録された「Happyending Soulwriter's council Band」(川本真琴作曲)で、田渕は初めてバンド以外のレコーディングに参加した。レコーディング中、彼女は緊張のため、一切コントロール・ルーム側のスタッフを見ようとしなかった。
【て】
DESTRUCTION BABY 
99年9月にリリースされたメジャー・セカンド・シングル。同年4月にタルボックス・ロード・スタジオ(た行参照)にてレコーディングがおこなわれたが、予定より早く終了してしまったため、当初3曲入りの予定だったものに、急遽一日で完成させた「CRAMP DISCHARGER」を加えて4曲入りとなった。
デイヴ・フリッドマン 
『DESTRUCTION BABY』『SAPPUKEI』『NUM-HEAVYMETALLIC』のエンジニア・プロデューサー。ウィーザー、フレーミング・リップス、マーキュリー・レヴ、モグワイなども手掛け、マーキューリー・レヴではベースも兼任している(レコーディングのみ参加)。95年に発表されたフレーミング・リップスのアルバム「Clouds Taste Metallic」を聴いた向井は、その音に感動。その頃からサウンド・メイキングのお手本にしていた。67年生まれ、二児の父。ニューヨーク州立大学エンジニア学科で教鞭も執る。NY郊外のフレドニアで生まれ、育ち、地元の大学に行き、結婚し、子供を作り、スタジオを作り、仕事をしている。外に出たいと思ったことはないのか?との問いには「とにかくここが好きだ。雪でさえも」と答えた。エコー&ザ・バニーメンのプロデュースを頼まれた際に「ここでやるのでなければ受けられない」と断った。いろんな種類が少しづつ入った日本製のキャンディーが好物。子供はポケモン好き。
鉄風 鋭くなって。
この曲の歌詞は、SAPPUKEIツアーの打ち上げで浅草の屋形船に乗ったときのことがイメージになっている。締め切りがぎりぎりだったため、向井はスタジオに泊まりこみ、気合いを入れるために田渕以外全員、エンジニアも含め上半身裸でレコーディングに臨んだ。
テレヴィジョン
向井のフェイヴァリット・バンドのひとつ。彼らの代表曲「Marquee Moon」はライヴ開演時のSEとして、ZAZEN BOYSでも引き続き使われている。この曲を使っている理由のひとつに、曲が長いのでセッテイングにトラぶっても大丈夫ということもあるとか。2000年、ナンバーガールがNYのCBGBでライヴをおこなった際、向井は「昔、テレヴィジョンのトム・ヴァーラインのようにクールになりたかったが、キャラが違うのでなれなかった」と英語でMCし、どこまで伝わったかは不明だが、なんとなくオーディエンスは納得していた。
伝説飲み
毎年12月30日に福岡でおこなわれていた飲み会。男子のみ50人ほどが集まり、居酒屋においてスタート。店が閉まったあとは酒を買い込み路上で飲む。翌日の午前10時、立ち飲み屋が開けばそこで飲む。ここまで残っているメンツは5名ほど。昼過ぎ、ヴァージン・メガストアのジャズ・コーナーに常に設置してあるジョン・コルトレーン『至上の愛』を試聴器で聴き、各自実家に帰り正月を迎える。
【と】
透明少女 
東芝EMIより、99年5月にリリースされたメジャー・デビュー・シングル。この曲のイメージから"向井はロリコン"という誤解を受けるが、向井は、自分の好みが現在も一貫して"肉感的女性"であることを公言している。
DRUNKEN HEARTED
98年夏に福岡のインディー・レーベル、automatic kissからリリースされたシングル。当初、向井は「酒」というタイトルを付けようとしたが、メンバーから反対されたため、変更した。
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【な】
中尾憲太郎(なかお・けんたろう)
1974年6月17日生まれ。福岡県北九州市出身。80年代後期のバンド・ブームの時、"背が高いから"という理由で、音楽にはさほど興味もないのにベースを持たされる。その後、クラッシュを聴いてショックを受けてからは、意識的に音楽を聴き始めるようになり、グランジ・ブームにも大いに感化され、バンド活動に本腰を入れ始める。彼の社交性の高さはつとに良く知られているが、それは渡米時にも多いに発揮され、レコーディング中に滞在していたフレドニアにもすっかり馴染んでいた彼は、クラブに行くと「Hi Ken!」と声をかけられまくっていた。名前のあとに年齢を入れるようになったのは、彼のフェイヴァリット・バンドであるスーパーサッカーズ(さ行参照)のギタリスト、ダン・ボルトンがやっていたのを手本にしている。また、美術学部中退という学歴は、あまり知られていない。ナンバーガール脱退後は、自身のリーダー・バンド、Sloth Love Chunksを結成。その他、元COWPERS竹林現動率いるSPIRAL CHORDにも参加。精力的に活動を続ける。
NUM-AMI-DABUTZ
2002年3月にリリースされたラスト・シングル。この曲のプロモーション時に良く使われた大仏のお面は、タルボックス・ロード・スタジオ(た行参照)を訪れたペンギン・ノイズのスタッフがお土産として持参したもの。
NUM-HEAVYMETALLIC
2002年4月にリリースされ、ナンバーガールのスタジオ盤としてはラスト・レコーディングとなったアルバム。2001年から2002年、年をまたいでの2度にわたる渡米の末、完成をみた。納得がいかずにバック・トラックのみでボツにされた楽曲も多く存在する。
ナンバー5
向井がおこなっていた宅録ユニット。その名前は、ビートルズの日本編集アルバムのタイトル、及びピート・タウンジェントのギターに書かれていた"NO.5"から取られた。94年頃に向井は、このデモ・テープを東京の各レコード会社に送っていたのだが、リアクションの無さに失望しバンド結成を思い立つ。ある雑誌の編集者が東芝EMIに勤務していた頃、この作品を聴いて向井に「ルー・リードの『Berlin』を思い起こします」と手紙を書いていたことが判明した。ちなみにテープは紛失していた。
NUMBER GIRL(DVD)
解散後の2003年3月にリリースされた2枚組アンソロジー映像作品。福岡時代の貴重映像など、見どころ満載のディスク1には副音声も収められており、向井がA&Rの加茂と吉田を叱りつける部分は聞きどころである。
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【は】
BACK DROP BOMB(バック・ドロップ・ボム)
ドラマーの有松益男は、北九州市在住時代に中尾とバンドを組んでいた。また、ヴォーカルの白川貴善がナンバーガールのアルバムを愛聴していたということが縁となり、2000年5月13日におこなわれた日比谷野外音楽堂でのナンバーガール主催イヴェント「FAN CLUB 7」で共演。同年10月には「W-EXPOSURE TOUR」として全国5か所で共にライヴをおこなった。
バリ
福岡弁で「すごい」「とても」という意味。 例:「(電話で)俺くさ、こん前くさ、中洲おったったいね。昼間よ、昼間。俺ほら、今、国体道路で現場やりよろーうが。それで昼腹へったけんが、中洲の方の牛心行ったったい。そしたらくさ、他の客全員くさ、ヤ○○やったったい。もーバリコワ!! もうさ、えらいえずいと。もう普通に食えんちゃもん俺。すかーん。もう行かんがよかった」。 メンバー間では日常語として使われており、アルバム『SAPPUKEI』収録の「ZEGEN VS UNDER COVER」の歌詞でも「バリヤバイ!」と叫んでいる。語源はヤンキー用語の「全開バリバリ!」から来たという説と、英語の「Very」がなまったという説の両方がある。伝説の音楽雑誌「バリヤバ」(乞う!復刊)の誌名もここから取られた。
PANIC SMILE(パニック・スマイル)
福岡時代からの盟友バンド(現在は東京で活動)。ナンバーガールと共に自主イヴェント「チェルシーQ」(た行参照)、レーベル「ヘッドエイク・サウンズ」(は行参照)の中心的存在となる。椎名林檎とも福岡時代から交流があり、「本能」のプロモーション・ビデオで白衣姿でベースを弾いているのは元メンバー。向井はナンバーガール解散後、向井秀徳+PANIC SMILE&菊池成孔で数回ライヴをおこなった。
【ひ】
ピクシーズ
向井が大きな影響を受けたバンドのひとつ。シングル「透明少女」のカップリングで彼らの「Wave Of Mutilation」をカヴァーしている。向井は彼らを愛するあまり将来的には「フランク・ブラックみたいに禿げて、太りたい」と発言していた。
BJ'S
レコーディングで訪れたニューヨーク州・フレドニアにあるバー。滞在中、メンバーはここで地元民や学生たちとショットガン(アメリカ流イッキ飲み)をおこなうなどして、多いに親睦を深めた。99年3月にはこの場所でライヴもおこなっており、デイヴ・フリッドマン(た行参照)によると、そのときのライヴは今でもこの店の伝説として語られているという。ちなみに、マーキュリー・レヴのファースト・ライヴもここでおこなわれたそうだ。
ビーチュー
焼酎のビール割。これでガイ飲み(か行参照)をおこなうのが福岡スタイル。
ビブレ・ホール
ナンバーガールが良くライヴをおこなっていた、福岡市天神にある他目的ホール。中尾憲太郎は、ここで照明、雑用その他の仕事をこなしていた。パンク、ミクスチャー系の照明を担当するとイイ仕事をしたらしいが、いろいろなジャンルのアーティストが出演するハコだったため、自分の趣味とは違うポップス系アーティストの照明を担当するときは地獄だったという。
【ふ】
フェンダー・テレキャスター
向井のメイン・ギター。高級機やヴィンテージなどにはまったく興味のない彼は「ギターというものは弾き手次第でどれでも同じ、なおかつ消耗品である」という思想を持ち、壊れたら捨ててしまう。 ただし、ナンバーガール解散時にスタッフから送られたギターだけは大切にしているらしい。
フェンダー・ジャズマスター 
田渕のメイン・ギター。62年製と65年製の2本を所有。抱いたまま一緒に寝てしまうことがあるくらい大切にしている。そのため、向井に弾かれるのをたいへん嫌がった。
FUJI ROCK FESTIVAL
2001年開催の2日目、GREEN STAGEに出演し、大観衆を魅了した。前日から会場入りしていた向井は、その日の夜、サインをせがむファンたちに「相撲に勝ったらサインしてやる」と答えるが、酔っ払っていたため何度も投げられた。
ふとっぱら 
福岡市天神・親不孝通りから路地を少々入ったところにあった居酒屋。ナンバーガールの福岡での打ち上げは、必ずと言って良いほどここでおこなわれた。「美味い、安い」のもさることながら、メニューに「ゴキブリ」と書かれている開き直りが、さすが九州男児という感じである。現在は移転し、店内は小綺麗にはなったものの、残念ながら当時の趣はない。
4トラック・プロフェッショナル
向井が、共同してエンジニアリングをおこなった際、使用されるチーム名。向井が長年4トラックのカセット・レコーダーを駆使していたのが由来と思われる。
FAN CLUB(ファン・クラブ)
ナンバーガール主催による自主イヴェント。第1回目は99年3月10日、下北沢・CLUB QueでTHE PRIMROSEを迎えておこなわれた。同イヴェントでこれまでに共演したバンドは、BOAT、ルミナスオレンジ、BACK DROP BOMB、NAHT、RUMTAG、FIELDなど。99年6月に新宿・JAMでおこなわれた第4回のはライヴ音源は、同年末のライヴ・アルバム発売の際、10月におこなわれた渋谷・クラブクアトロの音源とどちらにするか最後まで検討された。最終的に、テンションで優りながらも音質の点でやや難があった新宿・JAMの音源は発表を見送られたが、『OMOIDE IN MY HEAD 2〜記録シリーズ1』でついに陽の目を見ることとなった。
bloodthirsty butchers
ナンバーガールのリスペクト・バンドのひとつ。99年11月、東名阪で「HARAKIRI KOCORONO TOUR」と題した共演ライヴをおこない、その後、毎年恒例となっていった。ヴォーカル/ギターの吉村秀樹は酔って含蓄の深い話をすることで知られており、その印象を向井はアルバム『SAPPUKEI』に収録されている「ABSTRACT TRUTH」で歌っている。ナンバーガール解散後、田渕が正式メンバーとして加入。ナンバーガールは、2001年6月におこなった日比谷野音のライヴで彼らの「プールサイド」をカヴァーしており、その音源は『OMOIDE IN MY HEAD 2〜記録シリーズ1』に収録されている。
フレーミング・リップス
ベーシストのマイケル・アイヴァンスは、シングル「DESTRUCTION BABY」のレコーディングでアシスタント・エンジニアを務め、カップリング曲「CRAMP DISCHARGER」にはタンバリンで参加している。日本の特撮、アニメにも造詣が深く、特に好きなのは「人造人間キカイダー」だそう。また、『NUM-HEAVYMETALLIC』のレコーディングの際、向井は彼らの楽曲「Yoshimi Battles The Pink Robot」の日本語訳を頼まれ、そのヴァージョンは同タイトルのアルバムの日本盤ボーナス・トラックとして収録されている。
【へ】
Headache Sounds SAMPLER CD Volume One.
97年、福岡のインディー・レーベル「ヘッドエイク・サウンズ」よりリリースされたコンピーション・アルバム。ナンバーガールが提供した「GIRLFRIEND GIRLFRIEND GIRLFRIEND」「GIRL IN MY BLOOD」は珍しく英語詞である。アヒト・イナザワが在籍していたNUDERの音源が聴けるのも貴重。一時は廃盤となっていたが、2004年に再発された。
ベルリン
下北沢にあったロック・バー。店名の由来はルー・リードのアルバム『Berlin』から。80年代中頃から存在していたらしい。向井は、NYパンク中心の選曲と雰囲気を好んで良く訪れた。その昔は下北沢交番のそばにあり、のちに小劇場「ザ・スズナリ」の1階に移転したが人知れず閉店。向井を含む多くの客を寂しがらせた。
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【み】
三栖一明(みす・かずあき)
eye pop名義で、ジャケット、広告、ウェブサイトなどナンバーガールのヴィジュアル・ワークのすべてをインディー時代から手掛けている。向井とは高校からの付き合いであり、メンバーと同時に上京した。高校時代、向井の学園祭でのステージを見たことがあるなど、向井とナンバーガールの過去を知る上で重要な人物。最近ではアナログ・フイッシュ、bloodthirsty butchersのジャケット・デザインも手掛けている。
【む】
向井秀徳(むかい・しゅうとく)
1973年10月26日、3人兄弟の末っ子として大阪に生まれ、小学2年生まで過ごす。以降、福岡、佐賀で青春時代を送る。初めて買ったレコードは小学1年生の時に買ったイモ欽トリオ「ハイスクール ララバイ」。小学校時代は漫画家になることを夢見て漫画ばかり書いていた。中学3年でギターを手にし、難しいほうがやりがいがあるだろうと、レッド・ツェッペリンのスコア・ブックを買うが早々と挫折。以降、オリジナル・ギター奏法の開発にいそしみ、それは現在のプレイにも大きく活かされている。中学3年の体育祭のあと、初めて焼酎を飲み「酒はうまい」と実感する。高校時代は宅録を趣味としていたが、ミュージシャンになる気はまったくなかったという。映画監督を目指し映画関係の大学を受験するが、イメージのみで解答したため失敗。久留米市の外人バーでバーデンをする。その時の経験が活かされ、ツアーやレコーディングでアメリカを訪れた際にも、アメリカ人とイメージでコミュニケーションが取れていた。親に「ふらふらしているのなら自衛隊に行け」と言われたのがきっかけで音楽の道に進むことを決意し、現在に至る。一番好きな食べ物はラーメン。嫌いな酒はない。苦手な物は女性のヒステリー。現在はZAZEN BOYS、無戒秀徳アコースティック&エレクトリックで活動中。
向井の兄
向井秀徳の8才年上の実兄。小学3年の向井を無理矢理映画館に連れて行き、「遊星からの物体X」を見せ、大きなトラウマを与える。日本有数のプリンス・マニアとしても知られ、小学6年生の向井にプリンスを繰り返し聴かせ、ビデオを見せ洗脳するなど、この兄なくして現在の向井はありえない。現在は塾教師、見た目は向井よりよほどミュージシャンぽい。
無責任飲み
その場に居合わせた人間ができる限りの友人を「すぐに来い」と呼び、来た人間はさらに知り合いを呼ぶ、という飲み会。99年春、下北沢でおこなわれた際、椎名林檎、ともさかりえ、pre-school、及川光博、各雑誌編集者など50人近くが集まった。その後も度々おこなわれていた。
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【ら】
RISING SUN ROCK FESTIVAL
北海道小樽市で99年よりおこなわれている夏のビッグ野外フェスティヴァル。その第1回目にナンバーガールは新人バンドとして異例の抜擢で出演を果たした。全プログラム終演後、朝6時に空港に向けて出発した帰りのバスの中、泥酔状態の向井は「まだ俺は帰りたくない」とだだをこね、スーパーカーなど同乗者たちを困惑させたというエピソードがある。それ以来、向井は出演するしないに関わらず毎年訪れている。
【る】
ルミナス・オレンジ 
新宿JAMでのライヴを向井が偶然見て感銘を覚える。その後、2000年発表のシングル「luminousorangesugarplastic」にイナザワが、2002年発表のアルバム『Drop You Vivid Colours』にイナザワと中尾が参加。イナザワはライヴでのサポートも務めていた。
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