
カラスの人生もまたオペラのごとく恋と歌に満ちた波乱万丈なものだった…。
| 1923年 | 0歳 |
| 12月4日、ニューヨークで生まれる。本名はマリア・アンナ・セシリア・ソフィア・カロゲロプーロス。彼女の両親ジョージとエヴァンゲリア・カロゲロプーロスは、同年8月にロング・アイランドにやってきたギリシャ系の移民である。 | |
| 1927年 | 4歳 |
| ジョージ・カロゲロプーロスは、マンハッタンのギリシャ人街で薬屋を開き、名字をカラスに変える。 | |
| 1932年 | 9歳 |
| マリアはピアノを習い始める。後半カラスは、奏者をつけずに自分でピアノにむかい、すべての役を練習することができたという。 | |
| 1937年 | 14歳 |
| 両親の離婚。母親エヴァンゲリアは二人の娘を連れてギリシャに帰国し、名字をカロゲロプーロスにもどす。 | |
| 1938年 | 15歳 |
| マリアはアテネの国立音楽学校(アテネ音楽院)に入学する。本来なら16歳から入学が許可されるところ、マリアは特別に進学できた。11月、マリアは学生作品「カヴァレリア・ルスティカーナ」で初めて舞台に立ち、学校賞(学院賞)を受ける。 | |
| 1939年 | 16歳 |
| アテネの国立音楽学校(アテネ音楽院)で、エルビラ・デ・イダルゴの個人授業を受け始める。イダルゴは、勉強中のマリアに軽いコロラトゥーラ役に留まるように勧めたという。勉強を終えた後、マリアは力強い劇的な役を演じるようになる。 | |
| 1940年 | 17歳 |
| 学生作品「仮面舞踏会」の第三幕と、「修道女アンジェリカ」に出演。11月27日、アテネのオペラ座で初めて舞台に立つ。役はスッペ作「ボッカチオ」の中のベアトリーチェだった。 | |
| 1941年 | 18歳 |
| 7月7日、17歳のマリアは病気の同僚の代役として、アテネ・オペラ座の「トスカ」の舞台に立つ。 | |
| 1942年 | 19歳 |
| アテネ・オペラ座と契約を結ぶ。1942年から44年の間に、マリアは「トスカ」「低地」(アルベール)「カヴァレリア・ルスティカーナ」「ノルマ」や「フィデリオ」を歌う。 | |
| 1944年 | 21歳 |
| 占領軍はギリシャの力を失い、イギリス海軍がピレエフス(註:アテネの港。ピレウスともいう)に到着する。マリア・カロゲロプーロスは米国へ行き、父親をさがすことにする。 | |
| 1945年 | 22歳 |
| 8月3日、米国行きの旅費を稼ぐため、アテネでコンサートを開く。9月、ニューヨークにもどり、名字を再びカラスに変える。 | |
| 1947年 | 24歳 |
| 1月27日、ヨーロッパの有名歌手をキャストに集め、「トゥーランドット」がシカゴ・リリック・オペラで演じられる予定だった。マリア・カラスも歌い手の一人だったが、エディ・バガロツィとオッターヴィオ・スコットによる共同事業だった会社が開幕の数日前に倒産し「トゥーランドット」の舞台は実現しなかった。けれども、練習時間に知り合ったイタリアの有名なバス歌手ニコラ・ロッシ=レメーニが、マリアをヴェローナ・オペラ祭の芸術監督ジョバンニ・ゼナテッロに紹介してくれる。ゼナテッロは、1947年度のオペラ・シーズンのため、米国に歌手をさがしに来ていたからだ。 6月27日、カラスはエディ・バガロツィとの契約書にサインし、米国を離れる。その後十年間、バガロツィがカラスの独占的エージェントを務めることになる。 8月6日、カラスはヴェローナの円形劇場で初舞台を踏む。作品はポンキエルリの「ジョコンダ」、指揮はトゥリオ・セラフィンだった。後にカラスの夫となるジョヴァンニ・パッティスタ・メネギーニと1947年から51年にかけて、カラスは数々のオペラを歌った。イタリアを主な活動の場としたが、1949年にはアルゼンチンで50年と51年にはメキシコでも歌った。出演したオペラには、(トゥリオ・セラフィンの指揮による舞台が多い)「トリスタンとイゾルデ」「運命の力」「トゥーランドット」「アイーダ」「ノルマ」「ワルキューレ」「パルジファル」「ナブッコ」「イタリアのトルコ人」などがある。 |
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| [以下、カラスの経歴の中でも特に重要なものだけを年譜にならべるとこにする。] | |
| 1949年 | 26歳 |
| 4月21日、ジョヴァンニ・バッティスタ・メネギーニと結婚。 | |
| 1951年 | 28歳 |
| 12月7日、ミラノ・スカラ座のシーズンの幕開け。カラスはヴィクトル・デ・サバータの指揮のもと「シチリアの晩鐘」を歌い、大喝采を受ける。 | |
| 1952年 | 29歳 |
| 1月、スカラ座で「ノルマ」を歌い、やはり大成功をおさめる。 6月、カラスは初めての曲「ランメルムーアのルチア」を歌う。(メキシコ) 12月7日、スカラ座オペラ・シーズンの幕開けに、「マクベス」を歌う。 |
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| 1953年 | 30歳 |
| 2月、EMIのために初めてレコーディングを行う。録音監督はウォルター・レッグ(EMIのA&Rディレクター)、曲は「ランメルムーアのルチア」だった。 3月、EMIのために「清教徒」を録音。 5月、初めて「メデア(Medea)」の舞台に立つ。(フィレンツェ) 8月、「カヴァレリア・ルスティカーナ」と「椿姫」をEMIのために録音。 |
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| 1954年 | 31歳 |
| 数ヶ月間の間にカラスは30キロ減量し、容姿が著しく変わる。 | |
| 4月、ルキーノ・ヴィスコンティのプロデュースによる「アルチェステ」(カルロ・マリア・ジュリーニと共演)と「ドン・カルロ」に出演。 4月〜6月、「ノルマ」「道化師」をEMIのために録音。 8月、「運命の力」「イタリアのトルコ人」の録音のほか、「マノン・レスコー」「ラ・ボエーム」「蝶々夫人」「修道女アンジェリカ」「ジャンニ・スキッキ」「トゥーランドット」「アドリアーナ・ルクヴルール」「アンドレア・シェニエ」「メフィストーフェレ」「セビリャの理髪師」「ディノーラ」「ラクメ」「シチリアの晩鐘」といった曲からの抜粋を、EMIのために録音した。 11月、カラスは米国にもどり、「ノルマ」や「椿姫」「ランメルムーアのルチア」をシカゴで歌う。 |
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| 1955年 | 32歳 |
| 3月〜5月、スカラ座で、ヴィスコンティがプロデュースし、バーンスタインが指揮した「夢遊病の女」とゼフィレッリがプロデュースし、カヴァッツェーニが指揮した「イタリアのトルコ人」の舞台に立つ。 5月〜6月、同じくスカラ座で、ヴィスコンティがプロデュースし、ジェリーニが指揮した「椿姫」の舞台に立つ。 6月、「メデア」「ヴェスタの巫女」「夢遊病の女」からの抜粋をEMIのために録音。 8月、「蝶々夫人」「アイーダ」をEMIのために録音。 9月、「リゴレット」をEMIのために録音。 9月〜10月、「ランメルムーアのルチア」をベルリンで歌う。指揮者はカラヤン。 10月〜11月、再びシカゴへ。「清教徒」「トロヴァトーレ」「蝶々夫人」を歌う。 12月7日、ミラノ・スカラ座のシーズンの幕開けに、「ノルマ」を歌う。 |
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| 1956年 | 33歳 |
| 8月〜9月「トロヴァトーレ」「ラ・ボエーム」「仮面舞踏会」をEMIのために録音。 | |
| 10月〜12月、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の初舞台を踏み、「ノルマ」「トスカ」「ランメルムーアのルチア」を歌う。同じ時期、フィラデルフィアとワシントンでも公演を行う。 | |
| 1957年 | 34歳 |
| 2月、ロンドンのコヴェント・ガーデンで初舞台を踏む。曲目は「ノルマ」、指揮者はジョン・プリッチャードだった。 2月、「セビリャの理髪師」をEMIのために録音。(指揮者はアレコ・ガリエラ) 3月、EMIのために「夢遊病の女」を録音。 4月、「アンナ・ボレーナ」を初めて歌う。(スカラ座) 6月、「トーリドのイフィジェニ」を初めて歌う。(スカラ座) 7月、「トゥーランドット」と「マノン・レスコー」をEMIのために録音。 8月、「ランメルムーアのルチア」をエディンバラ・フェスティヴァルで歌う。 12月7日、ミラノ・スカラ座のシーズンの幕開けに、「仮面舞踏会」を歌う。 |
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| 1958年 | 35歳 |
| 1月2日、カラスは「ノルマ」の第一幕が終わると、病気を理由に、舞台から立ち去ってしまう。イタリア大統領とローマの人々の前でのこうした振る舞いは、新聞で激しく非難される。 2月、だが、ニューヨークで行った「椿姫」は大喝采を受け、カラスは30分以上もカーテン・コールに応えた。 5月、「海賊」の公演期間中、スカラ座の支配人アントニオ・ギリンゲッリと口論したカラスは、彼が支配人を務める間、スカラ座への出演をやめることにする。 6月、ロンドンのコヴェント・ガーデンで「椿姫」の舞台に立つ。しかし新聞での評価は、ぱっとしないものだった。 9月、「マクベス」「ナブッコ」「エルニーニ」「ドン・カルロ」「アンナ・ボレーナ」「海賊」からの抜粋をEMIのために録音する。 10月〜11月、ダラスで「椿姫」と「メデア」を歌い、大喝采を受ける。米国各地をまわり、どこでも好評だった。 12月19日、赤十字を援助するため、パリでガラ・コンサートを行う。カラスのパリ・デビューは、話題を呼んだ。 |
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| 1959年 | 36歳 |
| この時期、カラスは仕事の数を減らしていた。夫のメネギーニとともに、アリストテレス・オナシスの「クリスティーナ」号に乗り込み、航海にでる。カラスたちのほか、オネシス夫妻やチャーチル一家、グレタ・ガルボらが航海のメンバーだった。航海が終わるとカラスは夫のメネギーニと離婚し、アリストテレス・オナシスと新生活を始める。報道陣は、この話に飛びついた! | |
| 1960年 | 37歳 |
| 12月7日、スカラ座のシーズンの幕開けにドニゼッティの「ポリウート」を歌う。報道陣や公衆は、話題の多い私生活にもかかわらず、カラスがやはり偉大な芸術家であることを知る。 | |
| 1961年 | 38歳 |
| 3月〜4月、ジョルジェ・プレートルとともに、EMIのためにオペラ・アリア集を二枚レコーディングする。 1961年から65年にかけて、カラスは毎年何度かコンサートを開き、オペラにも出演した。また、オペラ・アリアのレコードをプレートルとの共演で何枚も録音したが、カラスの健康と声は衰えていく。 |
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| 1965年 | 42歳 |
| 5月、パリで、「ノルマ」の舞台に五回立つ。カラスは疲れていたが、公演をとりやめようとはしなかった。5月29日、第三幕を終えたところで、カラスは意識を失い、第四幕はキャンセルされた。 7月、コヴェント・ガーデンで、「トスカ」の舞台に五回立つ予定だったが、主治医に止められ、7月5日に一度だけ、ロイヤル・ガラ(Royal Gala performance)の舞台で歌った。オペラの舞台に立つのは、これが最後となった。 数年の間に、カラスから次第に遠のいていたオナシスは、1968年にジャッキー・ケネディーと結婚する。晩年までの12年間、カラスはアリア・リサイタル集のレコードを二枚録音し、パゾリーニ監督の映画「女王メデア」にオペラとは無関係に出演した。 また、ジョゼッペ・ディ・ステファーノとともにコンサート・ツアーを行うこともあった。 |
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| 1976年 | 53歳 |
| 4月11日、パリのシャンゼリゼ劇場で小さなコンサートを開き、カラスは人前に最後の姿をみせた。 | |
| 1977年 | 53歳 |
| 9月16日、パリのアパートで死去。 |
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