1955年
イギリスのリヴァプールに生まれる。音楽好きの父の影響で、まずはクラシックよりもジャズに親しむ。9つ年上の姉スーザンはクラシックに関心があったようだが、サイモンはそうでもなかったという。ただし幼少時よりパーカッションには深く関わり、また姉から楽譜の読み方を教わって、早くもその才能を輝かせ始めたらしい。そして、そのころ接した音楽の大部分が20世紀の作品であったことや、その譜面にも同時に親しんだことが、現在のサイモンの在り方を投影しているようだ。
1966年
オーケストラとの本格的なかかわりは11歳のとき、メーシーサイド学生オーケストラへ、パーカッション奏者として入団したあたりから始まる。このころからコンサートなどにも頻繁に通うようになり、指揮者になることを夢見るようになる。
1970年
打楽器と同時にピアノやヴァイオリンも本格的に学び、特にピアノの腕前は相当なものになっていた。15歳の時には指揮者として最初のコンサートを開く。プロであるリヴァプール・フィルハーモニーの楽団員も交えたオーケストラを指揮したこのチャリティ・コンサートのプログラムは、ヴォーン・ウィリアムスの「タリスの主題による変奏曲」、シューベルトの「未完成」やモーツァルトのクラリネット協奏曲、それにマルコム・アーノルドの「イングランド舞曲集」というもので、地元メディアでも話題になった。
少年期には打楽器奏者として、指揮者として二足の草鞋を履いたラトルだが、プロとしてのキャリアは打楽器奏者として、リヴァプール・フィルハーモニーの臨時奏者として入団して始まった。これは前述した、初めて公式に指揮台に登ってからわずか半年後のことである。
1971年
全英学生オーケストラに参加。ピエール・ブーレーズと出会う。同年、王立音楽院に入学。始めにピアノを、すぐ後に指揮を専攻。
1972年
メーシーサイド学生オーケストラとともに、国際学生オーケストラ音楽祭に指揮者と打楽器奏者として参加。以後数年にわたり、このオーケストラを指揮して様々なプログラムで指揮活動を展開、このころからすでに、斬新で鮮烈なラトル独特の音楽作りが見られたようである。
1974年
ジョン・プレイヤー国際指揮者コンクールに応募、わずか19歳という若さで優勝。なお、このコンクールにはリチャード・ヒコックス、ジェフリー・サイモン、矢崎彦太郎といった錚々たる面々も参加していた。優勝に伴い、ボーンマス交響楽団及びボーンマス・シンフォニエッタの副指揮者に就任。
1976年
ニュー・フィルハーモニア管弦楽団を初めて指揮する。同年、ロンドン大学交響楽団とともにアメリカ・ツアーを行う。また、この年初めてバーミンガム市交響楽団を指揮する。
1977年
最初の商業用レコーディングをEMIレーベルに行う。同年、BBCスコティッシュ交響楽団の副指揮者に、またロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の準指揮者に就任。
1979年
ロスアンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団、及びシカゴ交響楽団を初めて指揮。同年、その後長きに渡って極めて親密な関係となるバーミンガム市交響楽団の音楽監督に就任。
1980年
バーミンガム市交響楽団との活動を開始。同楽団との、その後18年にわたる活動はたびたび「奇跡」とも例えられるもので、イギリスの一地方オーケストラが若く才気に溢れた指揮者を得て国際レヴェルに飛躍するという、クラシック界でも稀な事例となった。
また、ラトルの名を一躍高めたマーラー(クック補筆完成版)の交響曲第10番の録音をボーンマス交響楽団と行う。
同年、歌手のエリーズ・ロスと結婚。
1981年
バーミンガム市交響楽団にとっては初めてとなる「プロムス」公演を成功に導く。
1982年
バーミンガム市交響楽団とともにヨーロッパ・ツアー。
1983年
この年から翌年にかけて、バーミンガム市交響楽団とともにシベリウスの交響曲全曲演奏を行う。この成果はEMIへのレコーディングでも聴くことができる(TOCE-55495〜98)。
1984年
最初の息子、サーシャ誕生。
1985年
フィルハーモニア管弦楽団とともに初来日。
1987年
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を初めて指揮する。曲目はマーラーの交響曲第6番「悲劇的」。同年、バーミンガム市交響楽団にとって初のアメリカ・ツアーを敢行。
1989年
ロリン・マゼールの代役としてベルリオーズの「ファウストの劫罰」を指揮(オーケストラはロンドン・フィルハーモニー管弦楽団)。同年、2番目の息子エリオットが誕生。
1990年
バーミンガム市交響楽団との大プロジェクト「ミレニアムに向かって」開始。このプロジェクトはテーマを 1900年から10年ごとの単位で年代を区切り、それぞれの年代を代表する作品をラトルが選び、演奏するというもので、2000年までの10年にわたって繰り広げられた。
1991年
バーミンガムに新しい「シンフォニー・ホール」が完成。以後、ここはラトルとバーミンガム市交響楽団にとってコンサート、録音のメイン会場となる。
1993年
ウィーン・フィルハーモニーの定期演奏会にマーラーの交響曲第9番でデビュー。異例づくしだったこの公演で大成功を収める。
1994年
イギリス音楽界に多大な貢献をした業績により、ナイト称号を授与され、“サー”サイモン・ラトルとなる。
1996年
20世紀の音楽を紹介するTV番組「故郷を離れて」に出演。この画期的な試みはサウンドトラックとしてCDでも聴ける(TOCE-9704)。同年、アメリカの作家、キャンディス・アレンと再婚。
1998年
バーミンガム市交響楽団の音楽監督の地位を辞する。
1999年
ベルリン・フィルハーモニーの芸術監督に任命される。任命後初のレコーディングはマーラー(クック補筆完成版)の交響曲第10番(TOCE-55493)。
2002年
ウィーン・フィルハーモニーと画期的なベートーヴェン・ツィクルスを行う。EMIへのCD録音も平行して行われた(TOCE-55581〜85)。
2004年
ベルリン・フィルハーモニーを率いて来日公演。
2005年
世界初の試みとなる「ベルリン・フィル&ウィーン・フィル」合同オーケストラでの演奏会を実現。メインの曲目はマーラーの交響曲第6番《悲劇的》だった。