「ブラームス交響曲全集」CDレビュー

○レコード芸術 9月号で特選
宇野功芳氏、小石忠男両氏の推薦により、特選となりました。

○音楽の友 9月号
DISC SELECTIONにて、諸石幸雄、伊熊よし子、堀内修の3氏、全評論家が今月の推薦盤に。

○STEREO 9月号
ステレオ・ディスク・コレクション
歌崎和彦氏:特選盤 
「重厚無比なサウンドに圧倒されるベルリン・フィルのブラームス」
浅里公三氏:今月の話題盤
「各曲の性格も明確に表現した味わい豊かなブラームス」

○カプリース 9月号
表紙&巻頭特集にて
林田直樹氏レビュー
「何度繰り返し聴いても飽きることのない、含蓄にみちたブラームス」

ラトル最新インタビュー「ラトルが語るラヴェル」

2009年2月27日にベルリンにて行われたオフィシャル・インタビューより
3月18日にリリースするラヴェル「子供と魔法&マ・メール・ロワ」に関するインタビューを掲載いたします。

2009年2月27日於ベルリン・フィルハーモニー
聞き手・文:城所 孝吉(音楽評論・ベルリン在住)

●ラヴェルの《子供と魔法》、《マ・メール・ロワ》についてお聞きしたいと思います。両作品は、ラヴェルの子供時代と深い関わりを持っているように思われますが……。

サー・サイモン・ラトル(以下SSR)
「その側面は大変重要です。ラヴェルは大人になってから、家族と言えるものがありませんでした。これらの作品では、“失われた家族の姿”が投影されています。信じられないくらいに美しく、メランコリックな音楽ですよね。実際にはまったく存在しなかった“理想の子供時代”が表現されていると言えるかもしれません。《子供と魔法》では、大人としての知を得ることと、子供時代を喪失することが表現されています。両作品とも実に美しく、私自身本当に胸が張り裂けそうなほど感動します。ラヴェルはここで純粋さ、そしてある喪失について語っています。これはある意味では、ラヴェルとブラームスが出会う場所かもしれない。ふたりは互いに違いすぎるほど違った作曲家ですが、喪失と悔恨(失くしたものを悔やむこと)においては、非常に共通しています。そしてこのことは、ふたりにとって極めて辛く、悲しいことでした。」

●私があなたの解釈で最も美しいと思ったのは、絵本の王女様のシーンです。少年にとって王女様は最初に恋した相手なわけですが、ここで彼女はページの向こうに永遠に消えてしまいます。そのシーンは、作品全体を象徴しているように思われます。

SSR「子供時代の終わりの象徴ですよね。王女様はもう二度と帰ってきません。一体どうすればいいというのでしょう。大人として、子供時代が帰らないことに直面する瞬間です。このことについて、カラヤンが大変感動的で率直な言葉を発しています。カラヤンのエゴについては、時には理解を示してあげなければならないのではないでしょうか。それほど忘れがたいことなのですが、“若いときにはすべてが容易で人は鳥のようにさえずっていればいい。しかし年を取ると、人生の様々な荷が追いかぶさってくる。そうすると、昔の気楽なものの感じ方はできなくなって、鳥のように歌うことができなくなる”。カラヤンは、そう言ったのです。これは本当に真実ですし、また彼の本心だと思います。」

●ラヴェルは自分の子供時代やプライベートなことについて、ほとんど話したことがないようですね。記録も残っていませんが、これは実際特殊なことです。

SSR「ラヴェルは、プライベートなことについては非常に秘密主義でした。我々はどの作曲家についても、大抵のことは何でも知っています。シューベルト等については、知るべきでないほどプライベートなことまで知っているわけです。しかしラヴェルに関しては、彼の感情生活(とりわけ恋愛関係)がどのようなものだったのかは、ほとんど分かっていない。私は、彼のぜんまい仕掛けのおもちゃの鳥を見ると、ラヴェルの心臓の音が聞こえるような気がします。パリ郊外の彼の家と、あの山のような……」

●おもちゃですね。

SSR「それと靴です。イメルダ・マルコス夫人と双璧、とも言えるようなコレクション。彼はそうした内に秘めた感情を、すべて音楽のなかに込めたのでした。我々は彼のことを知らないわけですが、おそらく信じられないほど悲しい人だったのだと思います。」

●彼がぜんまい仕掛けのおもちゃに関心を持っていた、というのは興味深い事実ですね。

SSR「もちろんです。彼は機械に非常に魅せられていました。」

●彼は人とドライブしている時にある工場を指して、「これは《ボレロ》の工場だよ」と言ったりしたそうですね。例えばストラヴィンスキーも、彼のことを「スイス時計作り」と呼んでいます。

SSR「それはあんまり親切な言葉とは言えませんが、ストラヴィンスキーは他の作曲家の悪口を言うのが得意だったから……。今話をしていて思ったのですが、最近の私は少しラヴェルから離れたところにいるような気がしますね。ドイツに住んで長くなったからかもしれませんが……。ラヴェルは真の意味で最高クラスの作曲家だと思います。ドビュッシーと同等、あるいは“大きな形式で書いた”他の大作曲家と同等のクラスの……。非常に洗練された和声を持ち、20世紀のあらゆる音楽潮流を受け入れている作曲家です。」

●オペラのなかの少年は、宿題をするのが嫌がって、お母さんに部屋に閉じ込められます。それで腹いせに大暴れするわけですが、ラトルさんはこれに共感できますか。宿題をするのは嫌いでしたか(笑)。

SSR「そうですね。親の目を盗んで色々なことをやりましたよ……(笑)。実は家庭の事情で、私は駄々をこねて地団駄を踏む、ということはしなかったのです。それは家ではやってはいけないことでした。親が必要以上に厳しかったというのではありません。姉に障害があって、家では彼女を驚かすようなことをしてはいけなかったのです。彼女が怒って大暴れするということはあったのですが、私自身が大騒ぎするということはなくて……。《子供と魔法》は、子供をめぐる一種のシンボルです。少年が象徴しているのは、物を壊すのは自分でも、それを元通りにするのは他の人、という姿勢。責任を取らないで乱暴を働くというのは、子供が取る典型的な行動パターンです。オペラはその責任とはなにか、ということを問題にしているのです。」

●この作品に教育的な効果があると思いますか。

SSR: 「いいえ。特にそうは思いません。つまるところ、この作品はまったく子供向けの作品ではないのです。徹頭徹尾大人のための音楽だと言うことができます。確かに《マ・メール・ロワ》は(非常に洗練されたものではありますが)子供がピアノで弾くために書かれた作品です。ドビュッシーの《おもちゃ箱》もそうでしょう。子供のための音楽というのは、当然のことながら存在し、中には《ピーターと狼》のような傑作もあります。しかし《子供と魔法》は、子供のための作品ではありません。

●つまり、もはや子供ではなくなった人のための音楽ですね。

SSR「そう。もう一度子供になりたいと願っている、子供時代を失った大人のための音楽です(微笑)。」

ラトル&ベルリン・フィル、ブラームス「第1番」で新局面を開く!
城所 孝吉(音楽評論・ベルリン在住)

 来日を目前に控えたサイモン・ラトル&ベルリン・フィルであるが、ベルリンでは現在、ブラームスの交響曲全曲(日本でのプログラム)が集中上演されている。これは日本公演のゲネプロといったところで、半月の間に4曲を3回に分けて演奏。EMIクラシックスもライヴ収録を行っており、シーズンの目玉とでも言うべき演奏会となっている。筆者はその第1回演奏会(「交響曲第1番」他)を聴くことができたが、これは両者の関係が新しい段階に入ったことを感じさせる記念碑的名演であった(10月30日所見)。

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 多くの観客にとってこの日のハイライトは、本来アルフレート・ブレンデルの最後の客演だったろう。ブレンデルは、今年12月に舞台から引退することになっているが、ベルリンでは、ラトルとベルリン・フィルの演奏会をお別れ公演に選んだ。それゆえ前半は、ハイドンの「交響曲第92番《オックスフォード》」、モーツァルト「ピアノ協奏曲第24番」というプログラム。ブレンデルは秋の昼下がりのようなメランコリックなコンチェルトを、淡々と力みなく弾き上げた。パユやマイヤーをはじめとする木管のソリストが、ピアノと美しいアラベスクを聴かせ、前半は聴衆の長い喝采のうちに終了。人々はこの時点で「当夜のメイン・イベントを聴いた」と思ったに違いない。
 ところが本当の頂点は、休憩後に演奏されたブラームスでやってきた。冒頭のハ音(c)のユニゾンから、オケの音がはっきりと違う。何と言うか、恐ろしく整然としていて「完璧」なのである。ベルリン・フィルというと、「何でも弾きのけるスーパー・オケ」という印象があるが、実際にベルリンで聴いてみると、結構ミスをするものである。平均的な完成度ならば、ミュンヘン・フィルやバイエルン放送響の方が高いかもしれない。これはもちろん、他の楽団よりも技術が落ちるということではない。そうではなく、団員がリスクを恐れず、最大限の表現を行おうとするがために、感極まってミスが起こりやすいということである(例えば管楽器でpをppにすると、失敗する可能性は倍増する)。同時にベルリン・フィルは、指揮者がオケの音楽的エネルギーを制御できないと、暴走(?)することが多い。一人ひとりの表現力が大きいので、100人が一気に馬力を出すと、オーラの弱い指揮者はなぎ倒されてしまうのである。それは結果的に、細かなミスや不揃いとして表れてくる。
 ところがこの日の演奏は、まさに完璧であった。とにかく団員の集中力がものすごく、どんなに難しい和声・テンポの境目であっても、「事故」が起きない。「まさにベルリン・フィル!」としか形容しようのないゴージャスな響きが、とめどない奔流となって客席へと流れ、聴衆はそれに文字通り飲み込まれるのである。その際特に驚かされたのは、80人を越えるメンバーが、ラトルの意図を汲んで本当に真剣に、全身全霊を傾けて演奏していたこと。客席には、彼ら一人ひとりの感情がビンビンと伝わってくるが、80人の思いはひとつの響きに収斂され、真のハーモニーを作り上げていた。こうした状況は、年に何度も起こるものではない。映画『ベルリン・フィル 最高のハーモニーを求めて』にもあったが、ひと癖もふた癖もある音楽家の集団が、本当の和(harmony)に達するのは非常に稀なことなのである。
 そしてこの晩それが起こり得たのは、何よりもラトルの力による。「完璧な演奏だったということは、音楽内容が優れているということとは直結しない」などと辛口にならないでほしい。ここで完璧だったということは、(ブラームスというベルリン・フィルの根幹とも言えるレパートリーで)ラトルが団員全員の「承認」を得たということだからである(そうでなければ、彼らは一丸となってついて来ない)。ラトルは自己の解釈で、ブラームスについてそれぞれ一家言を持つ団員たちを納得させることができた。彼の音楽に説得力があったからこそ、オケはそれに合わせて、真の集中力を発揮することができたのである。ドイツもののレパートリーで、ラトルがベルリン・フィルからこれほどの賛同を得たのは、あるいは初めてだったのではないだろうか。その意味で今回の演奏は、両者の新局面を告知するもののような気がする。今週以降に予定されている第2〜4番の演奏会は、一体どのような結果になるのだろうか……。いずれにしても、11月17日にリリースされる配信の録音が、この日の集中力を伝え得ていることを願ってやまない。

ラトル、会心の「田園」! ベルリン在住 中村真人(ジャーナリスト)

ラトル&ベルリン・フィルのベートーヴェンチクルス第2弾は、8番と「田園」という組み合わせ。筆者は最終日に聴いたが、いろいろな意味で忘れられない演奏会となった。

まずちょっとしたサプライズとして、この日はアンゲラ・メルケル首相夫妻が聴きに訪れていた。ラトルと一緒に舞台に現れたメルケル首相は、イスラエル建国60周年の今年、首相自らの傘下のもとで、かつてベルリン・フィルと何度も共演したポーランド・ユダヤ系の名ヴァイオリニストの名前を冠した「ブロニスラフ・フーベルマン奨学金」がこのたび創設されたこと、その経緯と意義を聴衆の前で語った。今後イスラエルの若い優秀な音楽家が、この制度を使ってベルリン・フィルのオーケストラアカデミーで2年間学ぶことが可能になるそうだ。

メルケル首相の挨拶によって会場は特別な雰囲気に包まれたが、演奏もまた格別だった。

冒頭の交響曲第8番は、ラトルにとってはベルリン・フィルとはおそらく初めてのレパートリー。安定はしていたし、やや遅めのテンポをとった4楽章のスケール感は巨人の歩みを連想させたが、両者の間の呼吸に幾分ぎこちなさも感じた。ラトルならこの曲に見え隠れするユーモアな一面も、もっと面白く聴かせることができるだろうに、と思ってしまう。

続くヴェーベルンの「4つの歌」では、当初歌うはずだったソプラノのドロテア・レシュマンに代わって、1983年生まれのアンナ・プロハスカがベルリン・フィルのデビューを飾った。ベルリンのハンス・アイスラー音大で学んだプロハスカは、最近ではベルリン州立歌劇場のアンサンブルメンバーとして、「愛の妙薬」のジャンネッタ役や1月にプレミエを迎えた「仮面舞踏会」のオスカル役などに出演している。あでやかな衣装で現れた小柄なプロハスカは、突然大舞台に紛れ込んできたどこかの国の王女様のよう。しかし、舞台の雰囲気を変える力量を持った歌手であることは確かで、抽象化される以前のまだ艶かしさを残したヴェーベルンの世界を巧みに表現していた。確かな技巧と明瞭な発音、舞台映えする存在感を兼ね備え、今後が楽しみな歌手だと感じた。休憩後のヴェーベルンの「交響曲」は、コントラバスを除いた小編成の弦楽器に、クラリネット、バスクラリネット、2本のホルン、ハープが加わる変則的な編成。響きはその前に演奏された「4つの歌」と類似している。ただ、音楽はかなり難解で、「スコアを辛抱強く勉強することによってのみ、この作品の内容と形式の関連性を把握することができる」とプログラムにも記されていたほど。救いだったのは、交響曲といってもほかのヴェーベルン作品同様、10分弱の長さだったことか。

さて、メインの田園交響曲。私が知る限り、ラトルはこの曲をベルリン・フィルと2001年、2003年の定期演奏会、さらにはツアーでも取り上げているし、おそらく自身の中でももっとも練られたベートーヴェンのレパートリーの一曲ではないかと思う。結果的にこの夜の演奏は、私がこれまで聴いたラトルの生演奏の中で、もっとも感動的な演奏のひとつとなった。

ベートーヴェンの交響曲を男性的、女性的という漠然としたイメージで区分することは危険ではあるけれど、この「田園」はラトルの音楽的特性が最大限に発揮される曲なのだと思う。丁寧に織り上げていく旋律美、響きのパレットの多彩さ、まったくどれをとっても見事で、至福の時間を過ごさせていただいた。4楽章の嵐の場面でのドラマチックな迫力もここでは過不足なく表現されていたし(ホルンの横に単独でぽんと置かれたピッコロも効果的だった)、終楽章など、音楽のあまりの神々しさに2度ほど鳥肌が立ってしまった。終演後、会心の笑みを浮かべたラトルが真っ先に立たせたのは木管ソロの4人(フルートのブラウ、オーボエのケリー、クラリネットのフックス、ファゴットのシュヴァイゲルト)。メルケル首相が臨席した特別な緊張感の中でのコンサートは、熱狂的なカーテンコールの中で幕を閉じた。

4月のチクルス後半には、5番、7番、9番という高峰が立ち構えている。ラトルがベルリンの聴衆を、そして任期後半に入るベルリン・フィルのメンバーをも唸らせる演奏を実現できるかどうか、大いに注目したいと思う。

2008年2月29日 中村真人 (Masato Nakamura, http://berlinhbf.exblog.jp)

ラトル&ベルリン・フィルのベートーヴェンチクルス第1弾 ベルリン在住 中村真人(ジャーナリスト)

2月に入ってからサイモン・ラトルのベルリンでの活動は目覚しい。まず2日と3日に恒例となった子供たちとのダンスプロジェクトの本番を振り、7日からは今シーズンのベルリン・フィルとの柱のひとつ、ベートーヴェンチクルスの第1弾がいよいよ始動。その合間の9日午前中にはハンス・アイスラー音大のオーケストラを振って、ハイドンのロンドン交響曲の公開リハーサルを行い、その翌週にはもう次のベートーヴェンチクルスという具合で、ベルリンだけで9回の本番というフル回転ぶりだ。さすがに疲れがたまったのか、ベルリン国際映画祭でワールドプレミエを迎えたベルリン・フィルの新作映画「TRIP TO ASIA」の記者会見を急遽キャンセル、翌日に延期する出来事もあった。

さて、ベルリン・フィルの音楽監督就任後6シーズン目にして初めて挑むラトルのベートーヴェンの交響曲チクルス。両者にとって機は熟したというところだろうか。2月と4月の計5回にわたるこのシリーズでは、「二重ポートレート」と題してベートーヴェンの交響曲にヴェーベルンのオーケストラ作品を組み合わせるところが、まことにラトルらしい。第1回目は交響曲第2番と第3番、その間にヴェーベルンの「管弦楽のための変奏曲」が挟み込まれるというプログラムだった。

ベートーヴェンの第2はおそらくラトルがベルリン・フィルとは初めて取り上げる曲。コントラバス3本の小編成で、弦楽器はいわゆる対向配置型(この日のコンマスは安永さん)。1楽章やアレグロ・モルトの4楽章では、ラトルの体のしなやかさと瞬発力が存分に発揮される。だが、それ以上にすばらしかったのは2楽章のラルゲットで、当夜の白眉のひとつと言ってもいいほど音楽が美しく流れていた。ラトルはここではあまり指揮をせず、メンバーの自発性に任せているかのよう。一転、4楽章終結部でのppからffへの強弱の交錯では、ラトルの巧みなドライブのもと、ベルリン・フィルの一丸となった合奏力と意思疎通がフルに発揮されて、火を噴くような迫力が生み出された。

次のヴェーベルンの「管弦楽のための変奏曲」は、プログラムでは休憩前に演奏されることになっていたが、休憩後に変更された。ベートーヴェンとヴェーベルンを組み合わせることについて、今シーズンのプログラム発表の記者会見でラトルがこんなことを言っていたのを思い出す。「ベートーヴェンとヴェーベルンは古典主義的でありながら同時に革命的です。両者ともどこかとりつかれたようなところがあり、作品への没頭ぶりは必然的なものでした。われわれはこの2人の作曲家に新しい光を当てることができると考えています」。

ヴェーベルン晩年のかなり晦渋なこの変奏曲も、ラトルの手にかかると響きのクリアさと、声部間のバランスのよさとで、音に不思議な生々しさが生まれる。そのヴェーベルンの徹底して凝縮した世界から、今度はやはり少ない主題を用いつつも、そこから無限のイマジネーションで外へと拡散するベートーヴェンのエロイカへ。ヴェーベルンを聴いた後では、エロイカの冒頭の2音がより革新的に鳴り響いた気がしたから、これらを続けて演奏したことはよかったのではと思う。少なくとも筆者には、「2人の作曲家に新しい光を当てる」という意味で新鮮な音楽体験だった。

「英雄」は、すでにこのコンビが2005年のアジアツアーなどで取り上げているレパートリー。筆者は98年にラトルがバーミンガム市響と来日した際にこの曲を聴いているが、そのときは古楽奏法寄りのやや小ぢんまりした演奏だったと記憶している。イダ・ヘンデルのソロで前半に演奏されたブラームスのヴァイオリン協奏曲でのスケールの豊かさとはある意味対照的だったのだ。それに比べると今回のベルリン・フィルとのエロイカは、この名門オケのベートーヴェン演奏の伝統に敬意を払い、それに寄り添う形で作品の雄大さを引き出そうとしているかに見えた。全体的に中庸ともいえるテンポから、重心の低いベルリン・フィルのお家芸ともいえる響きがいたるところで顔をのぞかせる。終演後、見事なソロを聴かせたオーボエのマイヤーとドールを首席とするホルンパートの3人には、とりわけ大きな拍手が送られていた。

次回は「田園」と8番。ヴェーベルンと組み合わせることで際立つベートーヴェンの革新性と、ベルリン・フィルの伝統とをラトルがどう融合して私たちに提示するか、非常に楽しみだ。

2008年2月20日 中村真人 (Masato Nakamura, http://berlinhbf.exblog.jp)

ベルリン・フィル 125周年記念フェスト ベルリン在住 中村真人(ジャーナリスト)(2007.11.13)

11月4日、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、本拠地フィルハーモニーでの「オーケストラ・フェスト」で創立125周年を盛大に祝った。大規模なお祭りにこの時期が選ばれたのは、ベルリン・フィルの最初の演奏会が1882年10月17日に行われたことと関係があるようだ。日曜日の午後1時から夜の9時半まで、大ホール、室内楽ホール、そしてヘルマン・ヴォルフホールのフィルハーモニーの大小3つのホールを舞台にノンストップで続いた、盛りだくさんの1日をレポートしたいと思う。

まず、午後からのフェストに先立ち11時から、この記念の年に合わせて製作された新作ドキュメンタリー映画「帝国オーケストラ(Das Reichsorchester)」が室内楽ホールで上映された。「ベルリン・フィルと子供たち」のエンリケ・サンチェス・ランチ監督による作品で、ナチス支配下にあった第三帝国時代のベルリン・フィルの実態に迫った注目作だ。ここではすでに何度も取り上げられているフルトヴェングラーではなく、オーケストラの個々のメンバーが、その時どのような問題に直面しどう生きたかということに焦点が当てられており、当時コンマスだったヨハネス・バスティアーン(現在96歳)や1944年に旧フィルハーモニーが空爆された夜に現場にいたというコントラバス奏者のエーリッヒ・ハルトマン(現在86歳)ら時代の証言者が次々に登場する。観客は年配のファンの割合が高いようだったが、当時の貴重な映像も盛り込まれた作品は見ごたえ十分で、最後は感動的な拍手に包まれた。日本のファンが見られる日も来るといいのだが。

1時、サイモン・ラトル指揮によるワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」から第1幕への前奏曲でフェストは幕を開けた。映画「帝国オーケストラ」で、ナチス支配下の時代にフルトヴェングラーが工場労働者のための演奏会で同曲を指揮するシーンがまだ頭に残っていただけに、21世紀のベルリンで今を生きるラトル&ベルリン・フィルの演奏を享受できることのありがたさを思う。オーケストラは時に社会を映す鏡でもあるのだ。さて、舞台にはこの日のキーパーソン、スイス人の著名な道化師ディミトリー(Dimitri)が登場し、客席はざわめく。身振りのみでラトルと軽妙なやり取りを交わした後(特に子供たちは大喜び!)、続くショスタコーヴィッチのバレエ音楽「黄金時代」からの1曲では、演奏中のオケのメンバーの邪魔をしたり、自ら楽器を持って合奏に参加したりとやりたい放題。コメディアンとしての彼の真価が発揮されるのは、実はこの日の最後になってからなのだが……。

演奏が終わるとオーケストラは一旦解散し、いよいよここから3つのホールで室内楽マラソンが始まる。各コンサートは30分から1時間程度の長さで、全て入場無料。それゆえ、事前から大変な混雑が予想されたため、ホール側は入り口でチップカードを配ることによって入場制限を図った。それでも次々と押し寄せる地元のファンで各入り口付近には長蛇の列ができ、大ホールに入り切れない人のためにホワイエのスクリーンでも演奏が同時中継された。

ベルリン・フィルには30以上もの室内楽グループがあると言われるが、彼らの精力的な室内楽活動がオーケストラ全体の響きに及ぼす影響の大きさは決して見逃すことができないだろう。この日のフェストではそれらを一挙まとめて体験することができ、同時にベルリン・フィルのサウンドの秘密に迫れる機会でもあった。プログラムは、(1)ベルリン・フィルの創立年周辺に作曲された、もしくはよく演奏されたロマン派の作品。(2)ベルリン・フィルのアンサンブルのために作曲、もしくは編曲された音楽。(3)ウルマンやハルトマンなどナチス支配下では封印、あるいは直接犠牲になった作曲家の音楽。という3つのテーマから中心に決められたという。他に(3)に関連するものとして、第三帝国下の「退廃音楽」についてのパネル展示がホワイエで行われた。

目移りするようなプログラムの中から、私は「12人のチェリスト」、「バロック・ゾリステン」、「金管アンサンブル」など日本でもおなじみのグループのほか、「ディベルティメント・ベルリン」によるモーツァルトの「音楽の冗談」、「シャローン・アンサンブル」によるストラヴィンスキー「兵士の物語」、ホルン・アンサンブルの演奏などを楽しんだ。共通して感じられたのは、彼らの1曲1曲にかける燃焼度の高い表現と、お互いの音を聴き合って音楽をよりよいものに高めていくまさに「フィルハーモニー」の精神、曲間のトークまで含めてお客さんを楽しませようとするサービス心だろうか。ホルン・アンサンブルによる「トリスタン」からの抜粋は、それだけでもうオペラの情景が目に浮かんでくるかのようだった。

さて、お祭りも大詰めを迎え、8時にメンバーが再び大ホールに集結した。万雷の拍手で迎えられたラトル、そしてまたしても道化師ディミトリーが舞台に登場する。どうやらディミトリーは小さなオカリナをお客さんの前で披露したいらしい。だが、オケの演奏の邪魔になるからと首を横に振るラトルはそれを取り上げてしまう。ショスタコーヴィッチの「黄金時代」よりポルカの演奏が始まると、怒ったディミトリーは指揮中のラトルの背中に飛びつき、オカリナを奪い返そうとする。ふと背広のポケットの中に彼の携帯電話を見つけたので、ちょうど電話がかかってきたよと渡し、ラトルは舞台の外に出て行ってしまう。その隙にディミトリーが好き放題にオーケストラを指揮し始めるものだから、もちろんお客さんは大爆笑。

そんな一幕を経て、この日の最後の曲、ストラヴィンスキーの「春の祭典」へ。直後のアメリカ演奏旅行のダンスプロジェクトでニューヨークの子供たちとこの曲を共演することになっていたから、ゲネプロの意味合いも兼ねていたのだろうが、ラトルとオーケストラは長い1日の疲れを全く見せることなく、まばゆいばかりに輝かしくエネルギッシュにこの曲を演奏した。

カーテンコールでディミトリーが再度登場。ラトルは彼のほおにキスをして、例のオカリナを目の前に差し出す。子供のように大はしゃぎするディミトリーに(実際はラトルより20歳も年上!)、お客さんからも大喝采が送られる。お祭りの日とはいえ、こういう演出が全くわざとらしくなく、チャーミングの一言で収まってしまうのはラトルの天性のキャラクターとしか言いようがない。

さて、アンコールは?
なんとディミトリーによる「オカリナ協奏曲」だった!ここまで散々楽しませてくれたとはいえ、まさか彼がラトル指揮のベルリン・フィルと「共演」するとは、私を含めお客さんはよもや思わなかっただろう。125周年のオーケストラ・フェストは、こうして大団円のうちに幕を閉じたのだった。

2007年11月13日 中村真人 http://berlinhbf.exblog.jp

ベルリン・フィル定期公演超速レポート!(2007年9月22日)   松岡究

3日前までのベルリンはとても寒く、歩いていると耳が冷たくなって痛い感じがしていましたが、一昨日から早朝こそ10度前後になるものの、日中は20度を越える日が続いています。
さて、ムジークフェスト・ベルリンも先週の日曜に終わり、私の友人からの情報によりますと、「この2週間半、世界の名だたるオーケストラと指揮者が来て演奏をしたけれど、結局はラトルとベルリンフィルが一番だと言うことがわかった」と新聞に載っていたそうです。また「ラトルとベルリンフィルの新しい時代の到来」とも書いてあったそうです。それを聞いて、大変納得のいく評論だなあと、つくづく思いました。本当にムジークフェストでのラトルとベルリンフィルは、私が今まで感じたことのないような充実感を見せてくれたと思います。
今日のコンサートは「AboKonzert」、つまり日本式に言うと「定期公演」です。曲目はストラヴィンスキーの4つの交響曲を集めたラトルらしいプログラム。まずこういったプログラミングの発想自体が素晴らしいと思いました。演奏順に「管楽器のための交響曲」「3楽章の交響曲」「交響曲ハ調」「詩篇交響曲」と言うプログラム(もう一つ交響曲変ホ長調という若いころの習作があります)。3日目ということもあって、やはりラトルとベルリン・フィルはもうお手の物と言う感じで、最初から最後までほぼ完璧なアンサンブルで聴かせてくれました。コンサートマスターは今回はブラウンシュタインさん。その隣に安永さんが座って今回もダブルコンマスです。といってもコンサートマスターが出てくるのは2曲目と3曲目のみ。ヴァイオリンとヴィオラは2曲目の「3楽章の交響曲」と3曲目の「交響曲ハ調」のみの演奏です。3曲目が終わると、ブラウンシュタインさんと安永さんは握手を交わし、一瞬コンサートが終わったような感じになりました(笑)。交響曲ハ調の楽章間で、ラトルが次の楽章に入ろうとしたときに、指揮棒を構えているにもかかわらず、無神経に咳をする人がいるわけです。ラトルは一旦指揮棒を下ろし、ハンカチで顔を仰ぐ素振りをしておどけて見せましたが、内心マナーに対する怒りのようなものを感じていたのではないかと思います。その感情をいい意味で自分ではぐらかして、演奏の集中力に影響が出ないような計らいをしたのでしょう。それにしてもまたもやマナーの問題が今日もあったのは残念でした。(私のブログの読者の方が、私は気付かなかったのですが、携帯・カメラ等に対するアナウンスは先シーズンの半ばくらいからやり始めた、と教えてくれました。)  どの演奏も素晴らしいものだったのですが、やはり今日の白眉は「詩篇交響曲」でした。管楽器にチェロ、ベース、打楽器、ハープ、2台ピアノそれに混声合唱という変わった編成。ヴァイオリンとヴィオラを抜いているので、音色が鄙びて原色に近くなります。その武骨な音楽の上に柔らかい合唱が乗っかり、オケと合唱が音楽的に強いコントラストを形成するのですが、その美しさたるや、素晴らしいものでした。私はこの曲を実演では3度目だったと思いますが、恥ずかしながら今日初めて傑作なんだと言うことがわかりました。
傑作を傑作として聴かせる事は本当に難しいことです。しかしラトルとベルリンフィルは、「今日のこのプログラムは紛れも無く後世に残る作品だ」と、堂々と証明して見せたのではなかったかと思います。
  
2007年9月22日
松岡究
http://qchan-dirigent.cocolog-nifty.com/blog/

リポート3日目(9月16日)  松岡究

さて今日は3日目(9月16日)の本番です。もちろん曲目や出演者の変更はありません。16時開演のマチネーということでラトルは燕尾服ではなく、黒い詰襟風のシャツで登場。1日目は語り手・歌手3人・ラトルという順番での登場でしたが、今日は語り手に次いでの登場。と言うのも私も気になっていたのですが、指揮台の左側(安永さん側)に3人の歌手が陣取っているので、お辞儀をするときにラトルの立つ場所が狭くて挨拶しずらそうだったのです。それがまず今日の改善点でした。(曲だけではなく、いろんなことが演奏会の中で改善されるのを見るのも、同じプロを聴いての楽しみです。)曲が始まり、例のバチェッリとシュトゥッツマンの2重唱に差し掛かりました。ハラハラしたのは多分私だけだったでしょう。でも今日はばっちり!彼女らの声は豊かで良く溶け合い、それを聴いているこちらはまさに法悦の瞬間を味わったといっても過言ではありません。3日目と言うこともあって、1日目の緊張感とは違った安心感と、オケも合唱も楽しんで音楽をやっていると言うことが直に伝わってきます。グリットンの歌も今日は1日目より劇的でしたし、合唱も余裕すら感じさせ、ほぼパーフェクトな仕上がりでした。しかし曲の終盤に差し掛かったところで、またもや携帯が。それも2度も鳴ったのです。1日目はバチェッリとシュトゥッツマンが歌い始める直前でしたから、もろに被害をこうむった恰好でしたが、今日は演奏に影響はなかったものの、ちょっとあまりのマナーの無さに正直ムッ!となりました。しかしながら今日も素晴らしい演奏で、ドビュッシーのこの隠れた傑作の間違いなく代表的な名演奏だったと思います。
後半はストラヴィンスキーの「星の王」。この曲は無伴奏の男声合唱が力強く歌い始めるのですが、完璧なアンサンブルと伸びのある声ですばらしい。そして1日目よりもっと幻想的にこの曲を締めくくりました。
そしてシベリウス。1日目は物凄い緊迫した素晴らしい演奏に体が震えたのですが、今日はあまりの感激に涙が止まりませんでした。アンサンブルとしては1日目よりは今日のほうが良かったと思います。それは昨日までの本番を通して、オーケストラがラトルの音楽、すなわちラトルのやりたいことを理解して来たということに他なりません。1日目は微妙にアンサンブルがずれかけていたのを全員の集中力で補っていたと思うのですが、今日は全員がラトルの音楽に理解と共感を覚え、演奏していたのではないかと思うのです。ですから細部までラトルの意思が浸透し、彫琢が施され、フレーズの1つ1つに意味が生まれているのです。驚異です!決して理知的な部分が勝っているということではなくて、全員が大きな感動の中に音楽をやっているのです。もう最後は涙で私の顔はグシャグシャになってしまいました。このような体験をさせてもらった事に心より感謝したいと思います。

話は変わりますが、こうやって演奏会の中でラトルとベルリンフィルは進化していくのを目の当たりにしたとき、例えば発売が予定されているマーラーの9番などは、8月に本番をやり、2ヶ月寝かせてまた3度の本番をやった上で録音されるものと思うのですが、何かとてつもない演奏に遭遇できそうな予感がしてくるのです。
次回は22日の演奏会をレポートします。次回はゲネプロから録音をするそうで、ゲネプロに立ち会うことはできませんが、きっとまた素晴らしいストラビンスキーを聴かせてくれるものと思います。
2007年9月16日
松岡究
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本番リポート(9月14日)   松岡究

さていよいよ本番です。勿論会場は満席。前売りも完売で、今回合唱が入ることから、ポディウム席(合唱席)は売りに出されませんでした。安永徹さんが入場してチューニングが始まり、歌手と語り手(ソプラノ:スーザン・グリットン、メゾソプラノ:モニカ・バチェッリ、アルト:ナタリー・シュトゥッツマン、語り手:ゾフィー・マルソー、合唱はベルリン放送合唱団、合唱指揮はサイモン・ハルセイ)そしてラトルが入場します。徐に曲が始まりだすと、ゲネプロでは聴かれなかったビロードのような音が会場を支配していきます。そしてバチェッリとシュトゥッツマンの2重唱が始まろうとしたその瞬間、携帯の音が!ゲネプロでは素晴らしい2重唱を歌っていた二人は、残念な事に集中力をそがれてしまいました。あんなに法悦の時をゲネプロで聴かせてくれていたのに、明らかに音程が下がり、音楽はどこかへすっ飛んで言ってしまったのです。このムジークフェストでは例外的に開演前にアナウンスまでして注意していたのに残念でなりません!!!(携帯は聴衆もがっかりするし、演奏者にも影響を与えます。皆さん、お互いに気をつけましょう)しかしそこを救ったのが、ラトルとベルリンフィル。全く集中力を切らさず、最後までこのめったに演奏されない傑作を感動の中に聴かせてくれました。マルソーの語りは大変音楽的で美しく、音楽の流れにぴったり沿っていて素晴らしいものでした。グリットンの歌も素晴らしく、透明感のある声は心を洗ってくれました。また合唱もゲネプロよりも圧倒的に素晴らしく、特に女声の透明感溢れる音楽にラトルもベルリンフィルもそして聴衆も満足していたようです。
休憩を挟んで、後半はストラビンスキーの「星の王」とシベリウスの交響曲第5番です。ストラビンスキーの作品は男声合唱とオーケストラのためのカンタータです。10分ほどの佳品ですが、ゲネプロで注意した音程も完璧。幻想的な雰囲気を残し曲は結ばれました。そして、シベリウス。この演奏こそ名演だといって過言ではないでしょう。しかしここでもハプニングが。ラトルが曲を始めようと構えた瞬間左手の方で喋り声が。ラトルは一度構えた腕を下ろしてもう一度構えました。しかしまだ喋り声はやみません。ラトルはその席のほうを指差して、口にチャックの合図。客席は一瞬どよめきました。そして3度目の正直、曲がやっと始まりました。しかしラトルとベルリンフィルはそのようなことがあったにもかかわらず、全く意に介した様子もなく素晴らしい集中力で演奏して行きます。この曲は特に第1楽章がリズムが錯綜していて本当に難しい作品です。あっ!と思った瞬間、リズムが崩壊する危険性を孕んでいるので、大方の指揮者はそれを避けるために無難なテンポを選びがちになってしまうのですが、ラトルは第1楽章の後半を今までに聴いたこともない急速なテンポでオケを引っ張り、それに応えるベルリンフィルの見事としか言いようのない完璧なアンサンブルは圧巻!の一言。第2楽章では北欧の叙情性と、弦のピッチカートに秘められた歌をうまく引き出し、第3楽章ではあの雄大なメロディーにあたかも神が乗って来る様な神々しさを聴き、私は体が震えました。
ゲネプロと本番がここまで違うクオリティーになるとは想像を絶します。ゲネプロでの客観的な姿勢と細かい指示がここまで結晶するという奇蹟を創造しえるこのコンビもまた奇跡としか言いようがないと思いました。
日曜日の3日目の演奏がどうなるか、期待せずに入られません。
拍手は鳴り止まず楽員が去った後、再度ラトルは舞台に登場。客席に手をかざして見上げるようにして一礼。その笑顔は大変素敵でした。

松岡究
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ゲネプロ・リポート(9月14日) 松岡究

今日(9月14日)は実は朝10時からフィルハーモニーでゲネプロを聞きました。10時15分前に楽屋口のある入り口へ向かうと、クラリネット主席のフックスさんが車輪の小さな自転車で颯爽と現れました。また何人かの楽員は楽屋口で談笑しており、普段見えない日常を垣間見た思いがしました。
客席に入ると、既に100人くらいの人が席に着いていました。今回のコンサートマスターは安永徹さんで、隣にスタブラーヴァさん前回と全く入れ替わってのダブルコンサートマスターです。ヴィオラの清水直子さんはもう席に着いてさらっていました。そして10時になるとラトルが現れ、今回のソリストであるナタリー・シュトゥッツマンさんと挨拶のキス。他の歌手と語りのゾフィー・マルソーとも挨拶を交わしたあと、ドビュッシーの「聖セバスティアンの殉教」のリハーサルが始まりました。と思いきや、「I am sorry」
とラトルの声。そう、最初は語りから始まるのですが、その語りを抜かして始めてしまいました。皆クスクス笑って、却って良い雰囲気に。そうすると先ほどとは見違えるような素晴らしい音がオーケストラから聴こえてきました。そのまま40分ほどノンストップのまま音楽は進行し、初めてラトルが止めました。ヴァイオリンのトレモロの部分で、「そこはもう少し繊細に・・・・」と言う注文。そうすると聴いたこともないようなpppがヴァイオリンから聞えて来るではありませんか。そして11時7分曲は終わり、「ブラッビシモ!」と言うラトルの声。そのあと5分ほど部分返しをしてドビュッシーが終了。休憩を挟んで、ストラヴィンスキーの「星の王」。男声合唱とオーケストラの小品ですが、これも合唱の音程を一度直しただけで終わりました。最後はシベリウスの交響曲第5番。ラトルはゲネプロを暗譜でやっていました。1楽章はノンストップで、そして2楽章になってストップがかかりました。「Contrabass!It goes with me」ベルリンフィルも難しい曲になると、譜面から目が離れないようです。その後は勿論皆しっかりとラトルを見て、結果良いアンサンブルになりました。そして最後まで行った後、部分返しを何箇所も行っていました。短い練習でベルリンフィルとして恥ずかしくない演奏をしようとするラトルの細かい注文に皆が良く応え、また楽員の方からも建設的な注文が出てくるなど良い雰囲気でゲネプロは終わりました。果たして今日の本番その演奏はどうなるでしょうか。今から期待に胸が膨らみます。
     松岡究
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