
りりィのデビューアルバム「たまねぎ」(1972/5/5発売)を知ったのは、当時購読していた「ミュージックライフ」の広告だった。洋楽雑誌でありながら、日本のフォーク&ロックのアーティストの広告、記事等も若干ながら掲載されていたが、その中の一人といった印象ぐらいで、広告的には同時期にデビューしたチューリップと同等の扱いだった記憶がある。まだその曲自体を聞いていないのだから知名度としてはそのくらいが当然で、この種の唯一の情報メディアだったラジオにしても、70年初期の全国ネットの深夜放送は「オール・ナイト・ニッポン」だけだったが、このデビューアルバムが紹介されたことはなかったと思う。
しかし、現時点から考えてみると、一つ特筆すべきことがあって、この1972/5/5というデビューは当時としてもかなり早いものである。まだ、荒井由美も中島みゆきもデビューしていない頃で、当時、ソロの女性シンガー&ソング・ライターという言葉は邦楽においても一般的ではなく、歌謡曲(?)以外では、カレッジ・フォーク的な世界で、森山良子、加藤登紀子、小林啓子、それ以外は浅川マキ、カルメン・マキ、くらいしかいなかった時代である。
だが、一般的に我々がりりィの存在自体を知ることになるのは、ラジオ、テレビ番組ではなく、映画だった。デビュー間もない頃、大島渚の映画「夏の妹」(撮入1972/6/3、公開8/6)の準主役として、起用されたのである。一般的には知名度のない、演技経験のないズブの素人(でなかったことは後に分かるが)を主役の栗田ひろみの重要な脇役としてキャスティングされたことは冒険だったが、りりィの存在はあっという間に、映画ファンの間に浸透した。というのも、この映画はりりィがいきなりヌードになるところから始まるからである。これには、当時のトップアイドルだった栗田ひろみの映画を見に行ったはずの観客はかなりの衝撃を受けたと思われる。つまり、「あの女優は一体誰だ?」。
今となっては、歌そのものより、そういう映像でもデビューしたことが、シンガー、りりィのデビューにどのくらいプラスになったかは分からないが、新人シンガーのデビューとして、ある種のインパクトがあったことは確かだ。
このデビュー・アルバムの「たまねぎ」の音楽的成立背景については、先ごろその業績を集めた「どこへ」(ウルトラヴァイヴ)の木田高介のアンソロジーのブックレット内のりりィ自身へのインタビューの中にもあるとおりで、このデビューアルバムの裏方としての功労者はなんと言ってもアレンジャーの木田高介である。
ジャックス解散以後のアレンジャーの仕事については、このアンソロジーを聴くと分かるように、特に70年初期~75年ころまで、フォーク&ロック前夜の時期のアレンジャーとして、木田が突出した存在だったことがよく分かる(当時、他のアレンジャーといえば、加藤和彦、石川鷹彦、星勝、瀬尾一三くらいしかいなかった時代である)。まさに、りりィという「原石を磨く」には最適の人材だったといっていい(後には、バックバンドのバンマスとして、プレーヤーでもステージでも活動を共にするようになる)。木田のアレンジは、歌謡曲風であったり、ジャズ歌謡的(その見事な結実が「私は泣いています」となったことはいうまでもない)だったりするが、与えられた材料を、素材を生かして料理するのがアレンジの妙であるのなら、このデビューアルバムの中では、「私の映画」に独特な効果があり、その冴えが随所に感じられる。
といいながらも、りりィの年齢的なこともあり(当時19~20歳)、このアルバム全体を被う、メルヘンチックな少女趣味色な部分は長所でもあり短所にもなっているが、それがいわゆる当時のフォーク・シーンに受け入れられたどうかは分からない。これ一枚で終らず、次の二枚目でブレイクするところがこの世界の不可思議なところである。
それより、異色かつ不思議なのは、このデビューアルバムに当時の日本の歌謡曲的な影響がほとんど感じられないところで、デビューするまではジャズを歌っていたというが、この後の「ダルシマ」「タエコ」になるとその影響は感じ取れるにしても、このデビューアルバムではその残滓は見つけにくい。逆に木田のアレンジで歌謡曲的になっている部分もあるように思う。木田自身もまだこの素材をどう生かすかの試行錯誤の時期だったといっていい。バック・ミュージシャンは現在で見ても豪華メンバーだが、人選は寺本氏とディレクターの武藤氏で行われ、木田高介のアレンジャー起用は新田氏の選択だったという。
このデビューアルバムは、りりィの20才の誕生日(1972/2/7)に完成(レコーディング終了)したそうで、まさに「20才の遺産」である。このレコードは、それ以降の「ダルシマ」「タエコ」へのブレイクを感じさせるブーム前夜の作品として、いつまでも変わることのない、未知数の魅力で満ち溢れている。
2011年12月
藤脇邦夫
2012年でデビュー40周年を迎えるイーストの唯一のアルバムがついに復刻されることになった。正式には初のCD化で、リイシューとしても初めてになるはずだ。1970年代初頭にアメリカのキャピトル・レコーズと契約し、日本には逆輸入という画期的な形でデビューした彼らもまた、世界進出を現実のもにした稀有なミュージシャンたちである。彼らはもともとキングストン・トリオを標榜するグループが発展したものだった。当時は学生ながらもアルバムを発表し、各種イヴェントやテレビ、ラジオにも出演して人気を博していたが、卒業から進学、就職を迎えるなかで一旦はその活動にピリオドを打った。しかし夢はあきらめきれず、あらためて世界デビューに向けて邁進していったのである。
イーストの中心メンバーである瀬戸龍介と森田 玄は62年に中学時代の友人と4人組のフォー・フロッグスというグループを結成する。当初はブラザーズ・フォーのコピー・バンドだったが、メンバー・チェンジを行なうなか(ベースに福山敦夫など)ニュー・フロンティアーズへと改名し、キングストン・トリオの影響を受けるグループへと成長していった。そんな姿が音楽評論家の高山広之の目に留まり、当時大学生でありながら幸運にもレコード・デビューが決まったのである。当時のメンバーは瀬戸(vo,g)、森田(g,vo)、新庄 駿(g,vo)の3人で、彼らのデビュー作『フォーク・ソング・ベスト12(ザ・ニューフロンティアーズ・ソングス)』(日本グラモフォン/SLJM-1305)は66年11月に発表された。さまざまなコンサートやテレビ、ラジオなどにも出演していたが、やがて新庄に代わって(モダン・フォーク・フェローズへ移籍)吉川忠英が加入。さらにドラムに足立文男、ベースに関 眞次を迎えバンド形態となった(林 京介在籍期間もあり)。その後も精力的な活動を続け、アメリカ進出を意識して米軍キャンプでも演奏するようになった。そこで瀬戸が単身渡米。大いに触発された彼は帰国後、今度はメンバー全員でのアメリカ行きを提案し、それを実行したのであった。ニュージャージーの友人宅をベースに各地で演奏活動を行ない自信を深めていくなかで、なんと人気テレビ音楽番組「エド・サリヴァン・ショー」からの出演依頼という大チャンスもあったようだが、すでに大学生になっていたメンバーは半年後の卒業のこともあり、迷った末に帰国の途に着いたのだった。68年のことだった。
大学を卒業した彼らは一旦はそれぞれの道へ進む。瀬戸と吉川は就職(瀬戸は日本コロムビアに入社した)し、森田は大学院へと進学した。しかし彼らの音楽への情熱は高まるばかりだった。それも世界へ向けて自分たちの音楽を発信したいと考えていた。3人はほどなくして会社、大学院を辞め、再びグループとしての研鑽を積んでいった。そしてデモ・テープを作り、世界のレコード・メーカーへ送るなどもした。いくつか返事はきたものの芳しい内容ではなかったことに業を煮やした彼らは思いきって渡米することを選ぶ。71年にアメリカに渡った時のメンバーは瀬戸、吉川、森田、足立に朝日 昇を加えた5人である。やがてサンフランシスコのライヴ・スポット、ボーディング・ハウスのオーディションに受かり出演。そこでの演奏が話題となり、彼らはハリウッドに向かい、ついにサンタモニカの老舗クラブであるトルバドールへの出演を勝ち取ったのだった。トルバドールに出演した彼らに早速(念願の)レコード・メーカー3社から契約のオファーが届く。いくら日本で活動していたとは言え、実力で彼の地で認められたことはあらためて凄いことだと思う。結局、3社のうち彼らが敬愛していたキングストン・トリオが所属していたキャピトルと契約を結ぶことにした。これを機に“光は東方から”という想いを込めてバンドはイーストへと改名する。
キャピトルとの契約に伴いエージェントは大手のCMA(クリーム、ボブ・シーガー、CSN&Yらが所属)に任せることになった。そして自身もシンガー・ソングライターであったドン・ガントのプロデュースのもと、スティーヴィー・ワンダーも使ったハリウッドのクリスタル・サウンド・スタジオでレコーディングを開始。かくして出来上がったアルバムは72年にアメリカ(ST-11083)はもちろんオーストラリアなど世界6ヶ国で発売されるに至ったのだった。曲は「ソーラン節」をアレンジした(11)以外はメンバーの手によるもので、8曲が瀬戸の作品。ほかに森田と吉川が1曲づつ書いている。歌詞はすべて英語によるものだ。所謂フォーク・ロック調のサウンドを聴かせながらも和楽器が入ることによって全体的にサイケデリックな感覚さえ漂わせる。このあたりはアメリカでアピールする要素のひとつとして単に東洋(日本)のオリエンタリズムを強調したと言うよりも、のちの瀬戸の活動でも明らかになるような東洋思想と日本人としてのアイデンティティを(西洋音楽の)フォーク・ロックに融合させた作品であるとすべきだろう。その後の瀬戸の活動の原点とも言うべきかもしれない。ほかの海外進出組と比べてみても、東洋旋律をハード・ロックで表現したフラワー・トラヴェリン・バンドや、同じように和楽器を用いてプログレッシヴなアプローチをしていたファー・イースト・ファミリー・バンドとも、また違った独特の世界観を醸し出している。本作は異文化が混ざり合う試みが決していたずらに行なわれたものではなく、鋭い感性のもとに構築された“新たな音楽”を提示しているかのようにも感じるのだ。
さて、前述のように日本には逆輸入という形になったイーストだが、我国ではまず72年6月24日に渋谷公会堂でコンサートが開かれている。そしてアルバムからの先行シングル「ビューティフル・モーニング/ブラック・ハーテッド・ウーマン」(CTP-2679※アメリカ盤はP-3400)が7月5日にリリースされ、8月1日にアルバムである本作が発売されている。そうするうちに吉川が脱退するなどしてイーストはその短い歴史に幕を下ろしたのだった。
その活動期間の短さもあって、イーストもまた歴史のなかに埋もれてしまっていた存在かもしれない。しかし、こうしてまた光は昇ってきた。各々現役である彼らが、もし今この時代に、イーストを復活させたら?そんな夢のまた夢なども思い巡らせている。
2011年12月
山田順一/Junichi YAMADA
『Green Speed Way』は、ザ・ジャネットのデビュー作であると同時に、彼らが残した唯一のアルバムです。
このアルバムが発表された1974年の日本の音楽シーンは、ある意味で「混沌の時代」だったと思います。60年代の終り頃、社会的主張を込めた硬派なムーブメントとして盛り上がったフォークソングは、70年代に入ると、それまでの歌謡曲とは一線を画した、若者の日常の実感を託したリアルな音楽として定着していきます。そして、その中から吉田拓郎の「結婚しようよ」(72年)、かぐや姫の「神田川」(73年)、井上陽水の「夢の中へ」(73年)などのビッグヒットが次々と生まれていきました。
ザ・ジャネットの前身は、1972年に秋田県で高校生を中心に結成されたバンドで、メンバーは松尾一彦(ギター)、大間仁世(ドラムス)、佐々木克見(ギター)、陸川明彦(ベース)でしたが、翌年、陸川明彦は大塚幸雄(ベース)に替わっています。73年、彼らは日本テレビの『キンキン&ムッシュのザ・チャレンジ』というコンテスト番組に出場するに際し、グループ名をジャネットにしたといいます。ジャネットは番組の初代チャンピオンとなり、翌74年3月にシングル「美しい季節」で、東芝EMIからデビューしています。さらに7月にセカンド・シングル「渚のあの人」を発表。同年10月にリリースされたのがこの『Green Speed Way』です。
いま、改めてこのアルバムを聴くと、ザ・ジャネットがもっていた魅力、可能性とともに、74年という時代の空気も感じ取ることができるような気がします。
このアルバムにはメンバーによるオリジナル曲も収録されていますが、納められているシングル曲はB面も含めて、すべて既成の作家による作品です。ちなみにデビュー曲「美しい季節」とカップリング曲「恋はサーカス」の作曲者は平尾昌晃、セカンド・シングル「渚のあの人」と「ポップ・オン・ザ・サウンド」の作曲者は加瀬邦彦です。どちらも、歌謡界の大物作家であると同時に、60年代から70年代の始めにかけて、グループサウンズ(GS)との縁も深い人達です。ついでながら、本アルバムリリース後の12月20日にリリースされたサード・シングル「あなたへ」の作曲者は井上忠夫。彼もグループサウンズ、ブルーコメッツのメンバーでした。
ザ・ジャネットの宣伝に、「ネオGS」というフレーズが使われていたようですしこの起用は偶然ではないでしょう。制作サイドが、彼らを新しい時代のGS=歌謡曲とロックのハイブリッドグループとして売り出そうとしていたのは間違いないと思います。同じ頃、チユーリップにもネオGSという捉え方がありましたし、ネオGSという括り方は、新しい音楽のムーブメントを取り込もうとする、混沌期における歌謡界の視点だったのだと思います。
しかし、アルバムを聴けばおわかりいただけるように、GS系作家たちが手がけた楽曲は、メンバーのオリジナル曲とははっきりとしたテイストの違いを示しています。松尾・大間による一曲目の「スィーター」を始めとするメンバーの楽曲は、それぞれの個性の違いはありますが、どれも自分たちの音楽表現を追求しようとする志が感じられる純度の高いポップロックになっています。それに対して、作家達の手がけたシングル曲は、ポップロック的様式は意識されているものの、歌謡曲的おいしさのセオリーを駆使した“売れ線”狙いの意図がはっきり見て取れます。
いま聴くと、こうした楽曲のアンバランスさがつくり出しているシニカルさも、アルバムのキッチュな魅力を構成する要素となっていると感じられるのですが、当時の彼らはその落差に困惑したに違いないと思います。制作・マネジメントサイドが良かれと思って行なった仕掛けは、むしろ彼らの可能性をスポイルする結果を生んでいったとも思えます。例えば、デビューシングル「美しい季節」はロンドンのアビーロード・スタジオでレコーディングされていますが、さほど意味があったとは思えません。また、松尾一彦→松尾ジュン、佐々木克美→佐々木かつみ、大塚幸雄→大塚ケン、大間仁世→大間ジローと、メンバー全員が改名をしていますが、これもロックンロールっぽさを意識したことは察せられますが、その効果は疑問です。こうしたボタンの掛け違いとでもいうべき齟齬が、彼らには終始ついてまわったのでしょう。ザ・ジャネットはその後も試行錯誤を続けますが、75年に解散してしまいます。
1974年という時代にデビューしたことは、ジャネットにとって不幸だったのかもしれません。しかし、いま改めて聴く『Green Speed Way』が魅力にあふれたアルバムであることも事実なのです。結果論かもしれませんが、おそらくそれは、商業音楽の王道としての歌謡曲の思想と、花開いていこうとする新しいポップ・ミュージックの価値観とがぶつかり合って放った火花ともいうべき、まさにこの時代だからこそ生まれた魅力なのだという気もします。
最後に、ザ・ジャネットが結実させられなかったポップロックのビジョンは、その後、松尾一彦、大間ジロー(仁世)がオフコースに参加するという形で、次の時代に種を運ぶことになったということにも触れておきましょう。
2011年12月
前田祥丈
あの圧倒的な熱量は、けして忘れることができないだろう……。
1991年の春、いまはなき市川のライヴ・ハウスでボクはその圧倒的なエネルギーに触れたのだ。
その前年、ラスト・ライヴも行なわれずに、解散発表だけが伝えられたVOW WOWの解散以来、山本恭司の動向には、数多くの人たちが注目していた。
「また、おもしろいことをやりたいね」
山本恭司は、解散発表後にこう語っていたが、ラウドネスと並んで海外でも高い評価を受けている、その当時の日本を代表するバンドだったVOW WOWの解体だっただけに、彼がそんなにも早く新たなバンドを結成するとは、予想すらしていなかった。たぶん、しばらくは冷静かつ客観的になる時間が必要なのではないかと、予測していたのだ。
91年の春先に、彼から伝えられた新バンドでのライヴの知らせには、予想すらしていなかっただけに、本当に心の底から驚かされたものだ。しかも、武道館を満員にするほどの人気を誇っていたVOW WOWと違って、新しく結成されたバンドは、とにかくライヴ・ハウスに出演することを目標としていたのだ。
3月4日、大宮フリークスに、ふたりの若者を引き連れて姿を現した山本恭司は、トリオのそのバンドをWILD FLAGと名付けていた……。
ボクが目撃した市川でのライヴは、3回目に彼らが姿を現したときだった。古いノートをひっくり返してみたところ、3月26日のことだった。アマチュア・バンドに混じって、ベテランの山本恭司がライヴ・ハウスのステージに立つ光景を見たときには、強い違和感を感じたものだ。BOW WOWが76年に日本のロック・シーンに登場して以来、彼は常に大きなステージに立っていたようなイメージが強かったからだ。
BOW WOWからVOW WOWへの転換が起きる直前には、新宿ロフトで男だけが入れるライヴを行なったりしたこともあったが、それもある種のイベントのようなもので、彼はいつもホール・クラスの会場でライヴを行なってきたのだ。
「アマチュア。コンテストの審査員を引き受けたときに、英二のドラムを見て誘ったんだよ。庄太郎は英二の弟で、ものすごく若いけれど、すごいんだよ」
新たなるパートナーになった満園兄弟との出会いを、山本恭司は、当時このように語っていたが、その新鮮な出会いが、彼のミュージシャン・シップに火をつけたことは間違いないだろう。もちろん、彼のことだから、VOW WOWの解散後に、一緒にバンドをやれそうなミュージシャンをあれこれと考えていたことだろう。そのメガネにかなったのが、無名のアマチュア・ミュージシャンだったことは偶然にすぎない。そのとき、英二は21歳、庄太郎は18歳という若さだった。
初対面だったWILD FLAGのサウンドに圧倒されながら、山本恭司というベテランが、満園兄弟という驚異のパワーを持ったふたりに会ったときに、彼自身の初期衝動を開放する方向に向かったことを、ボクは無言のうちに感じ取っていた。それは、山本恭司というミュージシャンの新たな第一歩だった。キッチリと考え抜かれたうえで構築された完璧なサウンドをクリエイトしてきた山本恭司が、ワイルドかつストレートなサウンド、しかもヘヴィなうえにもヘヴィなサウンドを叩き付けてきたのだから、こちらとしても新たな覚悟を持ってして、そのサウンドを受け入れることになったのだ。
それから1年半の間に、100本を超えるライヴを行なった彼らは、1992年5月27日にファースト・アルバム『WILD FLAG』をリリース。駆け足で紹介するならば、92年10月にはセカンド・アルバム『Three Faces』を、93年7月7日にはサード・アルバム『Wild Land』をリリースしたのちに、このトリオにヴォーカルの堀井哲也とギターの八重樫浩士が参加した5人で新生BOW WOWが結成されることになる。
メタリカがベテランのルー・リードと組んで制作したアルバム『ルル』が、洋楽ファンの間で賛否両論となっている現在、ベテランとヘヴィ・ロックのコラボレーションが生み出す音楽の新鮮さに、誰もが驚いているのだ。
WILD FLAGは生き続けている。だからこそ、彼らの誕生を告げたこのアルバムの存在が重い。彼らを知るために、そして彼らと共存するために、いまこそ、この最初の一撃を正面から受け止めてほしい。
2011年12月
大野祥之
たまのメンバーである柳原幼一郎の初のソロ・アルバムが本作『ドライブ・スルー・アメリカ』である。
自らの聴取体験を如実に反映させた作品、ということができる。「ブルー・アイズ」と「みんなおぼえてる」と「アメリカン・ボーイ」の3曲以外はすべてアメリカン・ポップス/ロックのカヴァーだ。しかも歌詞をすべて柳原自らが訳してつけている。カヴァーすることで自らの思い/感情を伝えるという点ではトリビュート・アルバムである。さらに選曲そのものにメッセージが含まれている。原曲の持つ心象風景や感情のありよう、想いの様相に柳原の感応が重ね合わされている。柳原の喜びと哀切が背中合わせだった日々とアメリカン・ポップスに奥床しい青さと苦々しさが淡くモザイク模様になっていたころとが二重露光になっているような。陽気なインナートリップ。それぞれの曲の醸し出す詩情を柳原の肉体を通して、新しい叙情に変える。
プロデュースは柳原自身と萩原健太。アメリカン・ポップスを探求する萩原はサウンド、アレンジ両面で頼りになる。自らもギタリストであるし。選曲は柳原と萩原を中心としたミーティングを重ねる中で決定していったと萩原はいう。レナード・コーエンの「ハレルヤ」はすでに制作の初期段階で決定していたという。スタジオでのセッション中にアレンジが変化し、結果的に興味深いミクスチャー作品となったのがラモーンズの「ロックンロール・レイディオ」。カントリー・ロックがポリリズミックに展開される着眼が良好だ。カーミットの「レインボウ・コネクション」というニクイ選曲が泣かせる。過去と現在を結びつける切ない詞が素晴しい。この収録ヴァージョンをこの曲の作者であるポール・ウイリアムズ氏に直接聴かせたところ、氏はたいそうお喜びだったという。
バッファロー・スプリングフィールドの「ミスター・ソウル」は、ニール・ヤングの曲をぜひやりたいという話合いの末、だったらいっそのことバッファローで、という流れで登場したとのこと。その他、クルト・ワイル作でドアーズで有名な「アラバマ・ソング」、ティム・ハーディンの「リーズン・トゥ・ビリーヴ」、バート・バカラック/ハル・デイヴィッド作でハーパース・ビザールのヴァージョンでよく知られる「ミー・ジャパニーズ・ボーイ」、カーペンターズの「オンリー・イエスタデイ」、コール・ポーター作のスタンダード・ナンバー「エブリ・タイム・ウィー・セイ・グッドバイ」となめらかな流れを醸し出しながら、底にほろ苦さがある。これもひとつのコンセプチュアル・アルバムである。アメリカと日本、という大ワクだけではなく、日本人の日常とアメリカン・カルチャーの影との関係にちょっとひとこというならば、というものだ。愛と憎しみは感謝にふちどられている。聴く者ひとりひとりのかつての想いを呼び醒ます名盤である。
2011年12月
湯浅学