BEASTIE BOYS / ビースティ・ボーイズ

BIOGRAPHY

Photo by P.M.Ken

一体誰が想像しただろう?

ベースを弾く少年の17歳のバースデーパーティのために思いつきで組んだパンクグループが、時代を代表する画期的かつ影響力のある人気グループに成長するなんて。当時十代だったビースティ・ボーイズ当人たちでさえ、予想だにしなかった。だがすでに25年を超えるキャリアを誇るまでになったグループは、売上4000万枚、グラミー賞3度、MTVビデオ・ヴァンガード功労賞、全米ナンバー1アルバム4枚(うち1枚はヒップホップとして初のビルボード200第1位を飾った1986年のデビュー・アルバム『ライセンスト・トゥ・イル』)を達成したばかりか、数々のワールドツアーをソールドアウトにし、音楽誌の表紙やテレビに登場してきた。

正確にはビースティ・ボーイズのデビューは1981年、ヤウクのバースデー・パーティだった。そのときのメンバーはベーシストのアダム・ヤウク(通称:MCA)、ドラマーのケイト・シェレンバック(その後のルシャス・ジャクソンのメンバーとなる)、ギタリストのジョン・ベリー(ビッグ・ファット・ラヴのメンバー)とマイク・ダイヤモンド(通称:MIKE D)。1982年になる頃には、グループは、マンハッタンのCBGBやA7などの会場でバッド・ブレインズ、レーガン・ユースといったグループのオープニングとして初ギグを経験していたし、あのマックス・カンザス・シティの時代にもギリギリ間に合い、最後の夜に登場している。

同年、ビースティ・ボーイズは7インチ盤デビューEP「ポリウォグ・シチュー(Polly Wog Stew)」をリリース。レコーディングされたのは、バッド・ブレインズのROIRレーベルでの伝説的セッションと同じジェリー・ウィリアムズの171A。このEPは、イーストヴィレッジにあるデイヴ・パーソンのレコード店ラットケイジ・レコードが経営する同名の小さなハードコア・レーベルからの初リリースでもあった。
(因みにビースティ・ボーイズのバンド名の由来はリスペクトするバッド・ブレインズと同じ頭文字から来ている事はあまりにも有名)
続いて1983年には、ジョン・ベリーの代わりにヤング&ザ・ユースレスのギタリスト、アダム・ホロヴィッツ(通称:ADROCK)を迎えてヒップホップに初挑戦し、12インチ盤「クッキー・プス(Cookie Puss)」(同じくラットケイジから)をリリース。「クッキー・プス」は、ダンステリアなどのNYCクラブがかけるようになった最初のBボーイズのレコードだった。そしてグループはついにNYC以外でもギグをやるようになった。

MCA/ マイクD/アドロックというラインアップでのデビューは1984年の12インチ盤「ロック・ハード (Rock Hard)/ビースティ・グルーヴ (Beastie Groove)」。プロデューサーはあのリック・ルービン(別名:DJダブルR)。グループは、彼がバブル・マシーンを持っていた為自分たちのDJに起用したのだ。このレコードはデフ・ジャムからの2枚目。3人は、カーティス・ブロウらのオープニングを務めて腕を磨き、伝説的クラブ「ディスコ・フィーヴァー」のDJブースからライムを飛ばし、さらにはディスコ・スリーがファット・ボーイズとグループ名変更を発表した夜に共演するまでになっていた。

1985年には、12インチ盤「シーズ・オン・イット(She's On It)/スロウ・アンド・ロウ (Slow And Low)」(デフ・ジャム/コロンビアの共同リリース)。またマドンナの北米「ヴァージン・ツアー」全公演でサポートを務める。続く12インチ盤「ホールド・イット・ナウ、ヒット・イット(Hold It Now, Hit It)」が都会のラジオでかかるようになったのは、RUNDMCやフーディニ、LLクールJ、タイメックス・ソーシャル・クラブらの草分け的な「ライジング・ヘル・ツアー」にサポート出演したのがきっかけだった。このときの出演を見て、リスナーたちは初めてビースティ・ボーイズが白人だと知る(「白ん坊とは知らなかったぜ」というセリフが流行ったのもこの頃)。それからまもなく12インチ盤「ポール・リヴィア(Paul Revere)/ニュースタイル(The New Style)」リリース。

1986年秋、ビースティ・ボーイズ初のアルバム『ライセンスト・トゥ・イル(LICENSED TO ILL)』(バンド初のラップ・アルバムでもある)がリリースされるや、ナンバー1に輝いた。「ファイト・フォー・ユア・ライト(Fight For Your Right)」 「ノー・スリープ・ティル・ブルックリン (No Sleep To Brooklyn)」 「ブラス・モンキー (Brass Monkey)」「ポッセ・イン・エフェクト (Posse In Effect)」など強力なシングルばかりのアルバムは、7週間第1位を維持し、同時にアーバン・チャートでも第2位。コロンビアでのこの史上最速デビュー・アルバム売上記録は今日まで破られておらず、ヒップホップ史上、レコード・セールスが500万枚を超えた初のレコードとなった。

1989年、『ポールズ・ブティック(PAUL'S BOUTIQUE)』でビースティ・ボーイズは様々なことを一新し、レーベルもキャピトルに移籍、生活拠点をもロスに移した。(以後今日までビースティはずっとキャピトル在籍)ビースティ・ボーイズとダスト・ブラザースがプロデュースしたこのアルバムは、次世代の新しいジャンルが生まれる基礎を築いたものの、大半のリスナーには理解されなかった。「シェイク・ユア・ランプ(Shake Your Rump)」「ルッキング・ダウン・ザ・バレル・オブ・ア・ガン(Lookin' Down The Barrel Of A Gun」 「カー・シーフ(Car Thief)」 「シャドラック(Shadrach)」、それにヒップホップ組曲の「B-Boyブイヤベース(B-Boy Bouillabaisse)」などの曲のリリック的および音楽的内容があまりに大量かつ多様で、普通の頭で一回聴いただけでは消化できなかったのだ。それでも『ポールズ・ブティック』により、批評家のビースティ・ボーイズの評価は高まった。ビレッジヴォイス誌のロバート・クリストゴーは絶賛し、ローリングストーン誌は4つ星をつけ、年配の批評家は「ヒップホップにおけるビーチボーイズの『ペット・サウンズ』、あるいはピンク・フロイドの『狂気』」と称えたものだ。

1992年リリースの『チェック・ユア・ヘッド(CHECK YOUR HEAD)』(グランド・ロイヤル/キャピトル)で、Bボーイズは生の楽器を再び取り入れ、マイクDがドラムス、MCAがベース、アドロックがギターを担当。このアルバムは当初、ハリウッドにあるアダム・ホロヴィッツのアパートで制作を開始したが、階下の住人から何度も脅迫されたため一時中断。その後、カリフォルニア州アトウォーター・ヴィレッジにあるバンド所有のGサン・スタジオ(寄木張りの床)に移って再開した。プロデュースはバンド自身とマリオ・カルダート・ジュニア(Bボーイズとの初仕事は『ポールズ・ブティック』でのエンジニア)。『チェック・ユア・ヘッド』は、「ソー・ワッチャ・ウォント(So Whatcha Want)」 「パス・ザ・マイク(Pass The Mic)」 「グラティテュード(Gratitude)」 「ジミー・ジェームス(Jimmy James)」など、ビースティ・ボーイズの新たな代表曲を数多く生み出した。バンドはキーボード・マニー・マークと数人のパーカッションを従えてツアーに戻り、『チェック・ユア・ヘッド』はダブル・プラチナ達成。

1993年頃には、『チェック・ユア・ヘッド』のレコーディング用に建てたGサンは拡張され、バンドのレコード会社グランド・ロイヤルを併設するまでになっていた。いわゆるアーティスト主導の完全インディペンデントなレーベルの先駆けといっていいだろう。同年、このレーベルは独自に初めてのリリースとして、ルシャス・ジャクソンの『イン・サーチ・オブ・マニー』を出し、グランド・ロイヤル・マガジン誌第1号を刊行。元々はファンレターへの返事としての機能だったのだが、やがて雑誌の形を取るようになる。ビースティ・ボーイズと友人たちの共同編集で、初刊の1993年秋冬号はブルース・リーのカバーストーリーを特集し、アートワークはジョージ・クリントン、そしてQティップ(ATCQ)、コクソン・ドッド、カリーム・アブドゥル・ジャバーたちのインタビュー記事を掲載。その後のカバーストーリーには、リー"スクラッチ"ペリー、ムーグ・シンセサイザーの歴史、マイアミ・ベースが登場している。(レーベルからは日本勢ではバッファロー・ドーターなどをその後リリース)

1994年夏、『イル・コミュニケーション(ILL COMMUNICATION)』(グランド・ロイヤル/キャピトル)がリリースされ、バンドがロラパルーザ・フェスで全米公演中にチャート・ナンバー1になる。今度もプロデュースはバンドとマリオ・カルダート・ジュニア。アルバムからのファーストビデオでスパイク・ジョーンズが監督した「サボタージュ(Sabotage)」は、図らずも全世界でスキャンダルを巻き起こした。この年のMTVビデオ・ミュージック最優秀賞がREM「エブリバディ・ハーツ」に行ったことで、ヤウクの叔父ことナサニエル・ホーンブロウワーがへべれけになってラジオシティ・ミュージックホールのステージに乱入し抗議したのだ。あとで会場からは空になった皮の酒袋が見つかったそうな。『イル・コミュニケーション』収録の2曲「シャンバラ(Shambala)」 「ボウディサトゥバ・ボウ(Bodhisattva Vow)」の印税はミラレパ基金に寄付された。これはチベット先住民が中国政府の軍事力により不正に占領されている事を世界に知らしめ、行動を起こす事を目的とした非営利団体。1994年5月、ビースティ・ボーイズはニューヨーク、ロサンゼルス、ワシントンDCで3回のショウを行い、収益をミラレパ基金に寄付。後に「チベタン・フリーダム・コンサート」開催につながり、90年代で最も意義ある慈善コンサートの一つとなった。

ビースティ・ボーイズは、『イル・コミュニケーション』のプロモーションの一貫で80年代以降初めてのアリーナ・ヘッドライン・ツアー、「クワドラフォニック・ジョイスティック・アクション」ツアーを敢行。NYCのマディソン・スクエア・ガーデンとシカゴのローズモント・ホライゾンはそれぞれ30分、マサチューセッツ州のウィスター・セントラムはおよそ20分、デトロイトのコボ・アリーナは9分でソールドアウトとなった。ツアーのチケット価格の1ドル分はミラレパ基金を通して、各公演都市の慈善事業に寄付された。バンドは世界へも打って出て、南米と東南アジアへ足を伸ばした。ツアー後、「アグリオ・エ・オリオ(AGLIO E OLIO)」をレコーディングし、インディーのグランド・ロイヤルからリリース。この8曲11分のEPは、バンド初期のハードコア・パンクへの原点回帰を思わせる。リリース後の数ヵ月間、未発表のクラブ・ギグを何度か行なった。

1996年6月15、16日、サンフランシスコのゴールデンゲート・パークにあるポロ・フィールドで第1回「チベタン・フリーダム・コンサート」が行われた。この週末のイベントには10万人の観客が集まり、アメリカでは1985年の「ライヴ・エイド」以来最大の慈善コンサートとなった。歴史的コンサートにビースティ・ボーイズと共に登場したのは次の通り:ア・トライブ・コールド・クエスト、ベック、ビョーク、チボ・マット、デ・ラ・ソウル、フー・ファイターズ、フュージーズ、ジョン・リー・フッカー、ペイヴメント、レイジ・アゲンスト・ザ・マシーン、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、スマッシング・パンプキン、ソニック・ユース、ヨーコ・オノ&イマ、バディ・ガイ、ビズ・マーキー、スカタライツ、リッチー・ヘイヴンス、チャクサン・パ、そしてゲストスピーカーにチベット・ハウス設立者のロバート・サーマンと、非暴力の抵抗として33年間の服役と拷問に耐えたチベット僧侶パルデン・ギャツォ。豪華すぎる面子だ。

同年、『ジ・イン・サウンド・フロム・ウェイ・アウト(THE IN SOUND FROM WAY OUT)』をリリース。元々は、ビースティ・ボーイズのインストルメンタル・ナンバーを集めたごく少数の限定版プロモーション用コンピレーションとして制作されたものだが、欲しいとの声が高まったためグランド・ロイヤル/キャピトルから発売。

1997年6月7、8日、ニューヨークのランドール・アイランドで第2回「チベタン・フリーダム・コンサート」開催。出演はビースティ・ボーイズ、U2、レディオヘッド、フー・ファイターズ、ランシド、KRS-ワン、パティ・スミス・グループ、アラニス・モリセットなど多数のアーティスト。同年秋、CD3枚組『チベタン・フリーダム・コンサート』としてリリース。NYCに戻ったビースティ・ボーイズは、この年一杯滞在し日焼けスタジオ通いはじめる。

1年後、第3回「チベタン・フリーダム・コンサート」のチケットは1時間でソールドアウトとなる。1998年6月13、14日、ワシントンDCのRFKスタジアムには13万人の観客が集まった。出演はビースティ・ボーイズ、レディオヘッド、デイヴ・マシューズ・バンド、パール・ジャム、REM、ハービー・ハンコック・ヘッドハンターズ、ソニック・ユース、ルシャス・ジャクソン、そして最後にサプライズ出演としてレッド・ホット・チリ・ペッパーズなど回を増す毎に賛同するバンドも増えるばかり。

それからひと月もしないうちに、『ハロー・ナスティ(HELLO NASTY)』がリリースされた(グランド・ロイヤル/キャピトル)。
「インターギャラクティック(Intergalactic)」のシングルとビデオの怪物的成功(駄洒落のつもりはない)のおかげで、このレコードはリリース1週間で全米売上が約70万枚となり、イギリス、ドイツ、オーストラリア、オランダ、ニュージーランド、スウェーデンで初登場第1位、日本とカナダで第2位、オーストリア、スイス、アイルランド、ベルギー、フィンランド、フランス、イスラエルでトップ10入り。ほとんどビョーキだ! 同じ7月の31日、360度「イン・ザ・ラウンド」ツアーをシアトルのキー・アリーナでキックオフ。360度回転するステージを設置し、公式「ビースティ・ボーイズ・ウィナーズ・サークル」の観客はどの席からでも視界を遮られることなくステージを観ることができた。さらに特別設計の円形PAが「サラウンド・サウンド」に新たな一面を創り出したのだった。

ツアー開始当初、ビースティ・ボーイズは、ショウに来ることができなかったファンのためにライヴの曲をフリーダウンロードできるようにしたのだが、驚いたことにレーベルに削除されてしまった。BeastieBoys.comにアップしたライヴの曲を維持しようとするバンドの闘いは、なんとウォールストリート・ジャーナル紙のカバーストーリーに取り上げられ、マイクDの粋な点描画まで掲載された。
それがうらやましくて仕方ないバンドの他のメンバーは息巻いた。「オレたちの描いた絵もいつかきっと載せてもらうぞ!」

1998年の締めくくりをMTVビデオ・ミュージック賞ビデオ・ヴァンガード功労賞で飾ったビースティ・ボーイズは、1999年年頭も、ローリングストーン誌、SPIN誌、ニューヨーカー誌、プレイボーイ誌などで最優秀アーティスト、バンド、レコード賞を総なめにした。ひと月後の第41回グラミー賞では、4xプラチナ・アルバムとなっていた『ハロー・ナスティ』で最優秀オルタナティブ・ミュージック・パフォーマンス賞受賞。「インターギャラクティック」も最優秀ラップ・パフォーマンス(デュオまたはグループ)を受賞し、バンドはラップとオルタナティブ両方のカテゴリーで受賞した初のアーティストとなった。第4回「チベタン・フリーダム・コンサート」は、この恒例コンサートのうちで最も意欲的なものとなった。1999年6月13日の週末、さまざまな国籍のアーティストがワイオミング州イースト・トロイ、アムステルダム、東京、シドニーと順繰りにプレイし、ビースティ・ボーイズ、レディオヘッドのトム・ヨーク、ジョー・ストラマー、ブロンディ、RUN DMC、ルシャス・ジャクソン、サ・カルトなどが出演。

また1999年には「インターギャラクティック」がMTVビデオ・ミュージック賞最優秀ヒップホップ・ビデオ賞受賞。ビースティ・ボーイズとエルヴィス・コステロは、米・人気TV番組「サタデーナイト・ライヴ25周年記念特別番組」で、エルヴィスの全米テレビ初出演を「再現」し、「レディオ・レディオ」のバックを担当。さらにCD2枚組全33曲収録のヘヴィー・アンソロジー盤『ビースティ・ボーイズ・アンソロジー~サウンズ・オブ・サイエンス (SOUNDS OF SCIENCE)』もリリース。3人が赤・青・黄のぬいぐるみに扮してスクーターに乗ったプロモーション・ビデオが話題となった新曲「アライヴ(Alive)」も収録した。

2000年、ビースティ・ボーイズの長年の映像コラボレーター、ナサニエル・ホーンブロウワーがバンドのビデオ18本をコンピレーションにしたDVDが、影響力ある映像作品として評価の高いクライテリオン・コレクションに加わった。このDVD2枚組『ビースティ・ボーイズDVDアンソロジー』は、新旧のオーディオ・リミックスに、カメラアングルも選択でき、無数のオーディオ/ビデオの組み合わせが楽しめるようになっている。ステレオマン誌はこのアンソロジーを「今後の音楽DVDを評価する際のベンチマークになるだろう」と絶賛。ホーンブロウワー自身の「アライヴ」 「ボディ・ムーヴィン(Body Movin')」 「インターギャラクティック」 「ソー・ホワッチャ・ウォント」 「パス・ザ・マイク」 「シャドラック(Shadrach)」「シェイク・ユア・ランプ(Shake Your Rump)」に、クライテリオンをほされたプロデューサー、ラルフ・スポールディングの奇妙で孤独な世界が赤裸々に描かれている。

2001年9月11日の同時多発テロを受け、ビースティ・ボーイズは10月28、29日、ニューヨークのハマースタイン・ボールルームでのミラレパ主催「ニューヨーカーズ・アゲンスト・ヴァイオレンス」慈善コンサートでヘッドライナーを務め、12万5000ドルを超える純収益をニューヨーク女性災害救援基金と、ニューアメリカンのためのニューヨーク協会(NYANA)9月11日基金に寄付した。
この2つの団体が選ばれた理由は、同時多発テロの被害者でありながら他の基金を受ける機会が最も少ないと思われる人々の為
に尽力しているからである。このコンサートのラインアップは、ザ・ストロークス、B52s、チボ・マット、ラハト・ファテ・アリ・ハーン、モス・デフ、ナード、ライヴァル・スクールズ、ザ・ルーツ、ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョン、ソール・ウィリアムズ、ストレッチ・アームストロング、アフリカ・バンバータ、そしてサプライズ出演で2曲歌ったモービーとマイケル・スタイプ(ボノも飛び入りでカメオ出演)。スピーカーとして、ヨーコ・オノ、イスラム平和フェローシップのイブラヒム・レイミー、デモクラシー・コラボレイティブのベンジャミン・バーバー、NYANAのヤンキ・シャリング、NYWFのミリアム・ブール。またジミー・ファロン、ショーン・レノンなどもサプライズでメッセージを出した。

その後まもなく、ビースティ・ボーイズがダウンタウンのマンハッタンに建設していたスタジオ、オシロスコープ・ラボラトリーズ(合板の床)<現在も制作の拠点>が完成し、バンドは新たにレコーディングを開始。2003年3月、ビースティ・ボーイズはアメリカで高まっていたイラク戦争反対運動に賛同する。開戦が迫っていたため、ニュー・アルバム完成を待たず、新曲「イン・ア・ワールド・ゴーン・マッド(In A World Gone Mad)」をBeastieboys.com、moveon.org、winwithoutwarUS.org、MTV.com、 milarepa.orgでフリーダウンロードできるようにした。(白盤の12インチ・アナログも限定リリース)同年、第9、10回「チベタン・グリーダム・コンサート」を開催し、ビースティ・ボーイズは4月10日に東京のNHKホール(忌野清志郎やモーサム・トーンベンダーが参加)、4月20日に台湾のSong-Hsan地区にある台北スタジアムでプレイ。これがバンドにとって初の台北でのコンサートとなる。帰路、カリフォルニア州インディオで行なわれた米・コーチェラ・フェスでヘッドライナーを務め、クラシック・ヒップホップのセットに新曲を数曲散りばめて何万人もの観客を歓喜させた。

2004年夏、6枚目のスタジオ・アルバム『トゥ・ザ・5ボローズ(TO THE 5 BOROUGHS)』リリース。3作連続の初登場第1位となる。
(日本でも洋楽1位/総合4位)ローリングストーン誌ではこの年唯一の5つ星評価を獲得。ここでちょっとしたスキャンダルが発生。
ニューヨークタイムズ紙が掲載した、ナサニエル・ホーンブロウワー制作の同アルバムからのナンバー1シングル「チ、チェック・イット・アウト(Ch-Check It Out)」ビデオについての一方的な批評が、この受賞経験もある映像作家のお気に召さなかったのだ。結局、同紙がホーンブロウワーの反論を載せた。ホーンブロウワーは「要するに(タイムズのような)見識の低い新聞にはオレの手法は高度すぎたってことさ」と切り捨て、険しい山道を懸命に新聞配達して「死んだヤギ一頭、弁償してくれよな」と毒舌を吐いた。『トゥ・ザ・5ボローズ』のプロモーションとしてバンドは「チャラー・アット・ユア・ボーイ」ワールドツアーを敢行。とはいってもバンドは、これはツアーじゃなく旅回りの演芸一座なんだと、メディアの呼び方を訂正。一座に同行したのはタリブ・クエリとボブ・ムーアズ・アメージンング・モングレルズ(雑種犬)―そう、ホントに犬の芸。これで演芸一座の名に恥じないってわけ。

2005年には『ソリッド・ゴールド・ヒッツ(SOLID GOLD HITS)』と題したシングルズ・コレクションを発売。全15曲収録。改めて各シングルはリマスターされ、それ相応の順番に収録されただけでタイトルのとおり「シングル黄金集」的な輝きを放つ1枚となった。
「誰がベストかってことをわかってもらいたい。ベストさえ知っていれば、他はいらないはずだから。シンプルなことさ。」とはPR用に用意されたマイクDの一言コメント。

ツアーでも演芸一座でもなんとでも呼んでくれればいいが、クライマックスは10月9日、ニューヨークに戻っての、ソールドアウトのマディソン・スクエア・ガーデンだった。コンサートに先立ち、ビースティ・ボーイズは観客50人にカメラを渡し、ライヴ・パフォーマンスを今までにないまったく新しい切り口で撮影してくれと依頼したのだ。その成果(と長時間におよぶ編集の成果)が長編映画『撮られっぱなし天国(AWESOME: I FUCKIN SHOT THAT!)』。2006年初めのサンダンス映画祭で初公開され、その後、劇場公開された。
ナサニエル・ホーンブロウワーのメガホン・デビュー作でもあり、日本でもきっちり映画として配給された。(配給:アスミック・エース)

2007年、ビースティ・ボーイズはリスナーへ新たな変化球を投げることになる。全曲インストルメンタルの『ザ・ミックス・アップ(THE MIX-UP)』は彼らがただのラップ・グループではないことをわかりやすく証明してくれた。バンドの25年を超えるキャリアを通し、唯一こだわっていたことは、やはり自己改革なのだと教えてくれる。『ザ・ミックス・アップ』では、ダイヤモンド、ホロヴィッツ、ヤウクがそれぞれドラムス、ギター、ベースをプレイし、キーボード・マニー・マークとベテランのパーカッショニストのアルフレド・オルティスが参加。バンドはまたもや再スタートボタンを押し、新たな金字塔を打ち立てた―それが、ビースティ・ボーイズ初の全曲新曲、全曲オリジナル・インストルメンタルのフルレングス・アルバム。『チェック・ユア・ヘッド』や『イル・コミュニケーション』収録のインストルメンタルを集めてカルト的人気を博した『ジ・イン・サウンド・フロム・ウェイ・アウト』のファンが大喜びしたことは言うまでもなく、更にファン層を拡大することに成功し、なんとグラミー賞「ベスト・ポップ・インストゥルメンタル・アルバム賞」をも受賞。どこまでも快進撃は続く。なお、同じこの年にはビースティ・ボーイズ初となるフジロック・フェスティバルの2日目ヘッドライン・パフォーマンスを果たしており、日本でも数少ないサマーソニック、フジロックと二大フェスティバルのトリを務めたバンドとなる。

NYC出身の愛すべき3人は本来の武器を手に果敢に新たな方向に突撃しつつ、次なる行動に向かって着々と準備していたのだ。
まずは2008年のアメリカといえば「改革が起きた年」、そう大統領選。そんな変革の期を目前に控えた2008年10月にオバマ
大統領候補(当時)を全力サポートする為のミニ・ツアー「ゲット・アウト・アンド・ヴォート」(=外に出て投票に行こう)を開催。若者の選挙への関心や投票を促進する目的で投票日直前の10月27日から6日間連続で実際の選挙・激戦州をツアーしたのだ。
ノース・カロライナ州シャーロットにてキックオフし、ヴァージニア、オハイオ、ミネソタと廻った。ラインアップとしてはジェリル・クロウ、ノラ・ジョーンズ、ベン・ハーパー、テネイシャスD、サンティゴールドらと一緒に開催し、「この選挙は自宅で見逃すには重要すぎる」と声高にメッセージを発表し、(当時)民主党候補/現・米大統領のバラク・オバマ氏を推薦した。以前から前・ブッシュ大統領の政策を痛烈に批判(特に環境問題)していた彼らならではのキャンペーンとなり、オバマ大統領が就任した直後の2009年1月19日にはワシントンDCにて行われた、更に若者に投票を促すキャンペーン「ロック・ザ・ヴォート」主催のコンサート「ヘイ、アメリカ・フィールズ・カインダ・クール・アゲイン」にも出演。バラク・オバマ新大統領就任を祝った。

そして、その間も3人のクリエイティビティは途絶えることなく、2009年秋、8枚目となるスタジオ・アルバム『ホット・ソース・コミッティー・パート1(HOT SAUCE COMMITTEE PT.1)』をリリースすることを発表するが、リリース直前の09年7月末に周知のとおり、バンドマスター的存在のMCAことアダム・ヤウクが左耳に癌性の耳下腺腫瘍があることが発覚。当初予定していたライヴのプランやリリース自体を無期延期にすることを発表。バンド曰く、『ザ・ミックス・アップ』が完成したのと同時に制作はスタートし、制作期間は約1年半~2年くらいで実にこの24ヶ月足らずでアルバム2枚分以上の素材が出来上がったらしい。アダム・ヤウクが治療に専念している間にマイク・Dとアドロックは変わらず勢力的にリミックスやトラック制作を続け、月日が経つに連れて徐々に新作もアップデートされていく。NASが客演し、先行ティーザー・シングルとしてリリースされた「トゥ・メニー・ラッパーズ」は第52回グラミー賞の「Best Rap Performance by a Duo or Group」部門にノミネートされた。MCAの治療の方も順調に進み、映画関係の仕事も行うようになった2010年10月にバンドは(予定通り)当初予定していたとおりに『ホット・ソース・コミッティー・パート2』を2011年春にリリースする事を発表。ミキサーにはあのフレンチハウス界の大物、カシアスのフィリップ・ズダールが迎え入れられ、『ホット・ソース・コミッティー・パート2(HOT SAUCE COMMITTEE PART TWO)』は完成に向かった。全くトレンドに捉われることなく、自由奔放にこれといったコンセプトやテーマを持たずに制作した新作。直近のラップ・アルバムにあたる『トゥ・ザ・5ボローズ』の時とはうって変わって、オバマ大統領のおかげで政治的・社会的テーマを掲げる必要性が少なくなった分、本来の彼らの持ち味である「ユーモア」や「ジョーク」が溢れる最高のパーティー・アルバムとなった。ラップあり、ロックあり、ヒップホップやハードコアあり、ダブあり、インストあり、スキットあり、本当になんでも「あり」の玩具箱のようなアルバムだ。夏に向けて徐々にいろいろなニュースや新作からの音源はお披露目になることであろう。"ストリート界のカリスマ"は健在なのである。

ヤウク、ダイヤモンド、ホロヴィッツ。まだまだ現役で8つ目となるチャンピオン・リングを目指して絶賛トレーニング中なのである。