
GRANT MARSHALL (DADDY G)1959年12月18日生まれ ROBERT DEL NAJA (3D)1965年1月21日生まれ |
Photo by Warren du Preez & Nick Thornton Jones. 2009/2010 |
マッシヴ・アタックは英国ブリストルにて結成されたバンドで、世界的には「トリップ・ホップ」というジャンルを確立させた事で有名。
それだけでなく様々なコラボレーターとの仕事でも有名で、今までに数々のアーティストと共に名曲を世に産み落としている。
元々は"ダディー・G“ことグラント・マーシャル、"マッシュルーム“ことアンディー・ヴァウルズ、そして元ペインターでMCでもあるロバート・デル・ナジャ(3D)の3人で活動開始。3人はイギリス初期の代表的なサウンドシステムの1つ「ザ・ワイルド・バンチ」のメンバーとして出会い、80年代前半より積極的にマルチに活動。1988年にスピンオフなプロダクション・トリオとして3人で活動を始め、Carlton McCarthyをヴォーカルに迎えた「Any Love」をインディ・リリース。後1990年にCirca Recordsと契約を結び、自然とVirgin Records傘下でキャリアを築くことになる。
彼らの代表曲のほとんどはサビというサビがなく、ドラマティックで独特の雰囲気のある強弱法を用いているのが特徴的。時にはディストーション・ギター、時には壮大なオーケストラ・アレンジ、そして極太ループなベースライン。それらが確かで本格的なデジタル・エディットやミキシングのようなプロダクションで支えられており、独特の世界観を醸し出す事に成功している。得てして彼らの楽曲はその時々に流行している英国ダンス・ミュージックの中でもテンポが遅いことでも知られている。この事実と共に、常にサイケデリックでサントラっぽいサウンド、そしてDJならではのテクニックなどなどが必然的に評論家たちを唸らせ、90年代中盤より「トリップ・ホップ」というジャンルとして語られるようになる。事実上マッシヴ・アタックが確立する事となる。ただ当の本人、ダディーGは2006年に以下のように語っている。「俺たちは「トリップ・ホップ」という単語自体が本当に嫌いだった・・・。俺たちが細心の注意を払って音楽を作ってたのは事実だし、ユニークであることには変わりないと思うけど、その言葉で括られることが嫌だったんだ。「お前達のバックグラウンドは常ここにある」って言われているような感じがしてね」
マッシヴ・アタックとしてのデビュー・アルバムは1991年にリリースした『ブルー・ラインズ』。デビュー盤はJonny DollarとCameron McVeyと共にプロデュースされ、彼らはマッシヴ・アタックの初のマネージャーとなる。“浮遊感"のあるゲスト・ヴォーカルのささやくような声、楽曲に散りばめられたロバート・デル・ナジャとダディーG独特のサウンドや歌詞(初期の頃はトリッキーも)また様々なサウンドをミックスさせた絶妙な折衷感が特徴的であり、その進化し続ける独創的な音楽性は、非常に高い評価を受けている。
90年代後半の多くのブラック・ミュージックやオルタナティブ・ロック、エレクトロニカ、ラップやニュー・メタルに至るまで、この作品からの直接的・間接的な影響は及ぶとされている。マッシヴ・アタックが影響を与えた多くのグループが生み出した作品からの逆影響が覗える音楽性で、現在までで最も世界的に成功した作品となった。その後90年代を代表するチルアウトな名盤『プロテクション』を1994年にリリースし、1998年にはヘヴィー・ギター・サウンドが目立った『メザニーン』をリリース。2003年には本質的にはロバート・デル・ナジャのソロ作品と言っても過言ではない『100th WINDOW』をドロップ。作品毎にマッシヴ・アタックのトータル・サウンドはより実験的に、よりメランコリーに発展していく事になる。ゴス・パンクな表層とムード・シネマティックなエレクトロニカの見事な融合を成し遂げると同時にバンドとして3人がうまくいかなくなり、不仲説が流れだし、それぞれが個々に制作活動を行うようになる。1999年に事実上マッシュルームが脱退。ダディーGも2001年の時点で一時バンドを離れることになったが、2003年の世界ツアー時には再びジョインし、2005年からはバンドとしての責任感も増し、スタジオ作業にも復帰。2006年にリリースしたマッシヴ・アタック初のベスト盤『コレクテッド』に収録されたTerry Callierとの新曲「Live With Me」をプロデュースする。バンドは1995年に「Melankolic」というレーベルをVirgin傘下に立ち上げるが、2003年に閉鎖。10年以上第一線で活動するこのブリストルのバンドは過去にMadonna、David Bowie、Neneh Cherry、Mos Def、Sine´ad O'Connorなどとのコラボレーションを果たしており、更にはルーツレゲエの大ベテランHorace Andyを相棒として、過去にリリースした全てのアルバムに参加させている。2009年にいよいよ最新作となる『ヘリゴランド』を完成させた模様。プロデュースには前作に続きNeil Davidgeを、ミキサーにはMark “Spike" Stentが迎えられている。
ロバートはNeneh CherryのUKナンバー1シングル「Manchild」を共同制作する。そのお返しにNeneh CherryとCameron McVeyはマッシヴ・アタックとしてのデビュー盤『ブルー・ラインズ』の制作を手伝う。実質家での作業も多かったデビュー盤だが1991年にVirgin Recordsより正式リリース。(全世界セールス:210万枚)『ブルー・ラインズ』はリリースされるや否や瞬く間に世界中で絶賛された。このアルバムには幅広いヴォーカリストが迎え入れられ、当時サウンドシステム的な活動をするバンドにとっては何一つ珍しくはなかったが、これだけ注目される中でのデビュー・バンドとしては一際注目を浴びる結果となる。迎え入れられたヴォーカリストはHorace Andy、そして元ワイルド・バンチの一員でもあるShara NelsonやTricky、Willie Weeなど。そしてもちろんNeneh Cherryも「Hymn Of The Big Wheel」という曲に参加。同年にマッシヴ・アタックの代表曲となる「Unfinished Sympathy」をシングルとしてリリース。Will Maloneのスコアによるアビー・ロード・スタジオでレコーディングされたこの曲は数々の賞にもノミネートされ、後にザ・ヴァーヴを初めいろいろなアーティストに影響を与えることとなるワンカメでシューティングされたプロモーション・ビデオと共にアイコン化される曲となる。当時のエピソードとしてちょうど世界情勢が湾岸戦争真っ只中だった時期だったのでCameron McVeyのアドヴァイスにより一時バンド名を「Massive」として活動。次のシングル「Safe From Harm」を出す頃にはバンド名を「Massive Attack」に戻す。このアルバムで全米をDJ/MCとターンテーブルといったシンプルなセットでツアーする。このツアー自体があまり好評ではなかった為にバンドとして結果、ライヴ・セットを積極的に取り組んでいこうという姿勢をとる事になる。ワイルド・バンチ時代からバンドにとってこのサウンドシステム・スタイルが全てだっただけに、新たな事へのチャレンジしなければならないという警告でもあった。決して温かくなかった米国でのアルバム・レビューなども含めて、サウンドシステム・スタイルのツアー自体も酷評される結果となり、後1995年にロバートは以下のように語っている。
「全然うまくいかなかったよ。特に酷かったのがミネアポリスだっけな、Prince's Clubってところ?それともGrand Slam?どちらにせよ、最終的にはカーテンを閉められたからね。全くをもって酷かったよ」
Shara Nelsonのギャラ問題と彼女自身がソロ・レコードへの興味が強くなっていった為、バンドは新たなヴォーカリストとしてEverything But The GirlのTracey Thornを迎えることになる。マネージャーだったCameron McVeyは止めることになり、ダディーGの推薦で当時リーバイスで働いていて、彼らのツアー・オーガナイズするのを手伝っていたMarc Pickenをマネージャーとして起用。Marcはマネージャー業をしながらマッシヴ・アタックのハウス・レーベルとしての機能をもつ「Melankolic」レーベルの立ち上げにも参加。Nicoletteを発掘したのも実はMarcでMcVeyがいなくなった後のバンドのディレクションに多々貢献することになる。
セカンド・アルバムの方向性としてバンドが選んだのは彼らのルーツにもある程度リスペクトをはらいつつ、新たな試みにも積極的にチャレンジ。『プロテクション』と題されたセカンド・アルバムは1994年に発表。(全世界セールス:140万枚)これまたワイルド・バンチ・ポッセのNellee Hooperが共同プロデュースし、マッシュルームと3D、そしてThe Insectsによってレコードはプロデュースされた。『ブルー・ラインズ』同様、このアルバムも商業的に成功した。
翌年にあのMad Professorによるダブ・ヴァージョンとなる作品『ノー・プロテクション』をリリース。『プロテクション』は英Brit Awardsで「Best Dance Act」賞を受賞し、ロバートは「こんなので踊れるわけないだろう」とジョークを飛ばした。『ブルー・ラインズ』に比べて『プロテクション』はよりダウンテンポでエレクトロニカでチルアウトな内容に徹していて、Horace Andyが歌うあのThe Doorsの名曲「Light My Fire」のカヴァーで締めくくっている。ここでも今振り返ると彼らのサウンドシステムとしてのルーツやライヴ・スタイルが伺える内容に仕上がっている。アルバム『プロテクション』での他のコラボレーターとしてはMarius de Vries, Craig ArmstrongにTricky。ご存知Trickyはこの頃よりソロ・アーティストとしてもキャリアをスタートしていたのでこの作品を最後にマッシヴ・アタック関連のリリースには参加しないと表明。その後のマッシヴ・アタックとの不仲説などのゴシップも有名に。ちょうどこの頃にポーティスヘッドの『Dummy』やトリッキーの『Maxinquaye』もリリースされ、「トリップ・ホップ」というジャンルは新造語として定着することになる。マッシヴ・アタックはそれに対して、そもそも固定概念を持たれたくないという考えが強かった為に積極的にこのタームを使用することはなかったし、括られることも頑なに嫌がった。すぐさまメディアは「ブリストル・シーン」について過剰に語るようになるが、実際ロンドンをベースに活動をしていたTrickyと仲間意識がほとんどなかったマッシヴ・アタックと別々に存在/活動していることがあからさまになり、徐々に誤ったレッテルの貼り方だということにメディアも気付くことになる。
1995年にマッシヴ・アタックはEMI/Virgin傘下に「Melankolic」レーベルを発足。Craig ArmstrongやHorace Andy、同郷のAlpha、SunnaやDay Oneなどといったアーティストをサインし順にリリースする。
1997年には『The Jackal』というサウンド・トラックに「Superpredators (Metal Postcard)」という楽曲を提供。この頃よりロバートの意向により、バンドとしてポスト・パンク的ギター・サウンドが色濃く前面に出るようになり、マッシュルームが時折不満をこぼし出すようになる。年末にカムバック・シングル「Risingson」を発表。来る新作への期待を膨らますアペタイザー・シングルとしてリリース。
1998年にサード・アルバム『メザニーン』を発表。(全世界セールス:310万枚)『メザニーン』はよりダークで、よりへヴィで、ギター・サウンドが特に目立ったアルバムに仕上がった。リリース前のレビューは賛否両論でどちらかというと商業的に成功しないであろうと言われたこのアルバムが皮肉的にもマッシヴ・アタックとして最も売れたレコードとなる。ライヴ・バンドとしての認知も広がり、サンプル音源と同等に楽器演奏によるレコーディングも新鮮に捉われ成功。
Angelo Bruschiniがリード・ギタリストとしてレコーディング、そしてライヴ・パフォーマンスにも迎えられた。ティーザー・シングル「Risingson」の後にシングル・カットされたのがCocteau TwinsのヴォーカリストElizabeth Fraserの美声が響く「Teardrop」。
トラックだけでなくそれに付随するWalter Sternのディレクションによるプロモーション・ビデオでも話題をかっさらう事に成功し、『メザニーン』の中でも最も親しみのある曲となる。マッシュルームとロバートはElizabethとスーパーマーケットで出会い、そのまま3曲のコラボレーションが実現。Horace Andyにもまた声が掛かり、神がかった「Angel」を含む3曲に参加。結果『メザニーン』は全世界で賞賛され、英Q Awardでも「Best Album」賞を受賞、Mercury Prizesにもノミネートされた。アルバム全編的にロバートのヒップ・ホップな影響が控えめだが伺える内容にもなっており、それをより実験的に高いレベルへ押し上げたことが成功の要因だとも言われている。アルバムのアートワークはクワガタがモチーフになっており、実際にVolkswagenのBeetle Carのパーツなどが用いられている。
このアルバムを引っさげて世界ツアーへ出掛けるわけだが・・・ここでマッシュルームと他のメンバーの間に確執が生まれることになる。マッシュはそもそも『メザニーン』の方向性に対してあまり満足していなかったのと、日々ロバートの権限が大きくなっていく事に不満を持つようになり、更にはツアーに出ること自体が苦痛になっていた。事実関係は未だに不明だが、当時マッシュルームはバンドの素材をあのマドンナに流出していたとされていて、というのもマッシュ自身が凄くマドンナとのコラボレーションを希望していたみたい。同時に他の誰にも彼自身のトラックをいじらせないというバンドにとっては有り得ない立場を取り出し、話し合いの結果、それらの目に余るマッシュの態度や言動に残りの2人が脱退を要請する。1999年秋にマッシュルームは正式にマッシヴ・アタックを脱退。マッシュルームは、その後の自身の深刻な健康上の問題は、他の2人との辛辣な関係によるものだと非難したと噂されている。更なる噂ではマッシュルームとして新たにソロ・キャリアをスタートさせると言われていたが10年以上経った今でもそのような動きやリリースは見当たらない。
2000年にロバートとダディーGの2人はウェブ上でマッシヴ・アタックとしての将来的展望をブロードキャストする。ちょうど同じ頃にロバートとプロデューサーのNeil DavidgeはRidge Farm Studioというスタジオにて集まるようになり、友人のミュージシャンと共に4枚目のアルバムの構想を練るようになる。その方向性とはより実験的で、よりサイケデリックでロックな内容になる面子と繰り返しジャムを広げる。『メザニーン』制作の時も含め、常見方として理解していたダディGだが、さすがにロバートが提示していたこの新たなアプローチにはがっかりしたみたいで翌年2001年頃よりスタジオから距離を置き、父親業に専念するようになる。
ロバートとNeil Davidgeはそれでも作業を止めることなく、むりろスピードをあげてよりシネマティックに、よりエレクトロニックに実験的なトラックを量産していった。まさにこの辺り、ダディーGが正式にマッシヴ・アタックのプロデューサーとしては名を貸さないと表明した辺りから彼ら「Melankolic」レーベルも機能しなくなってくる。2002年以降リリースがなくなり、2003年には閉鎖する。ロバート曰く「どんどんアーティスト側がわがままになり、莫大な経費がまかなえなくなったんだ」と告白。
2001年にはマッシヴ・アタック初となるそれまでのプロモーション・ビデオをまとめた作品『Eleven Promos』をリリース。
ダディーGさえも抜きにして始まったLP4の制作。ロバートとNeil Davidgeを中心に作業は行われSine´ad O'ConnorやHorace Andyを迎え入れ完成へと至った。マッシヴ・アタック、4枚目のアルバム『100th WINDOW』は2002年8月にマスタリングされ、翌年2月にリリースされた。(世界セールス:120万枚)音的にも最もコンセプチャルにまとめられた、サンプルやカヴァー曲が一切収録されなかった初めてのアルバム。『100th WINDOW』とはインターネット(ウェブ)上のセキュリティーについて書かれた本がベースになっていてそこからタイトルを引用。本国UKではセールス・チャート1位になるも過去の作品ほど話題にもならなかったが、逆にUK以外の他のテリトリーでは反応は悪くなかった。同年ロバートは児童ポルノ疑惑で逮捕され、UKのメディアはそれを大きく報道することになる。捜査の結果、児童ポルノ容疑は晴れるがエクスタシー所持で再逮捕されることに。この逮捕劇で『100th WINDOW』のツアーに影響が出るが、最初の数ヶ月でそれも解消し、大掛かりなライティングを要したライヴ・セットと共にツアーに出ることになる。このヴィジュアル等でタッグを組んだのがあのUVAことUnited Visual Artists。今やマッシヴ・アタックのライヴ・セットに関しては彼らなしでは成り立たないく
らいに斬新でフレッシュなヴィジュアル・ワークスを常に提供している集団。
このようにスタートは躓いたが、結果『100th WINDOW』は全世界で100万枚を超えるセールスを記録。大々的な世界ツアーにも出掛けた。スタジオ・ワークスには一切かかわらなかったダディーGだがこのツアーにはメンバーとしてきっちり参加した。特に記憶に残るのは地元ブリストルでの凱旋フリー・コンサート。噂だが2003年の世界ツアーはあまりにも経費がかかったのでバンドは
赤字になったと言われている。因みに2003年にはDJ Shadowを前座に迎えた東京公演も成功しており、続く7月にはフジロック・フェスティバルのグリーン・ステージ/ヘッドライナーとしての凱旋パフォーマンスも慣行。スタッフのギャラもまともに払うことが出来なかったみたいで翌年の2004年は少しスケールダウンした形でそれでも世界ツアーを続けた。
その後ロバートとNeil DavidgeのタッグでLouis Leterrierが監督し、Jet Li主演のハリウッド映画『Danny The Dog』のサウンドトラックのオファーを受け入れ制作に入る。そのギャラで2人は地元ブリストルに「100 Suns Studio」というスタジオを建てる。
『100th WINDOW』のツアーで同行した女性シンガーDot Allisonがエンドロール・トラックの「Aftersun」に参加。Neil Davidgeは『Bullet Boy』という映画にもスコアを提供。
2005年になってダディーGがスタジオに訪れるようになるが、あまり有益なモノは生まれなかった。もっと自由にトラック制作を出来る環境を求めてダディーGはRobot Clubというプロダクション・チームと別スタジオで作業を始める。一方ロバートとNeil Davidgeは他アーティスト共いろいろとレコーディングを積極的に行う。その代表的なモノとしてはUNKLEの『War Stories』というアルバムに提供したトラック「Twilight」だ。そして2006年にマッシヴ・アタックは初のベスト盤『コレクテッド』をリリースすることに同意する。単なるシングル集にするのではなく、未発表曲や新曲を詰め込んだボーナス・ディスクを付けた形でのリリースとなった
ベスト盤『コレクテッド』を引っさげてマッシヴ・アタックは全米を含む世界ツアーへ再び出掛ける。北米に関しては約8年ぶりとなるツアーで世界中でライヴ・パフォーマンスを成功。(日本はサマーソニック‘06のマウンテン・ステージ・ヘッドライン出演)『コレクテッド』(全世界セールス:120万枚)のアートワークは『メザニーン』のコンセプトの復元とも言える武器をモチーフに花弁に
見立てると言ったカオティックなヴィジュアルが用いられた。このベスト盤をリリースしたもう1つの理由としてレーベル側と新作「LP5」を仕上げる時間稼ぎが出来るという裏テーマもあったみたい。(結果2010年に発売が決定したので約7年ぶりのリリースとなる)
2007年にロバートとNeil Davidgeは3枚のサウンドトラックを制作する。あのスヌープ・ドッグをもフィーチャリングしたトラック「Calling Mumia」を収録した『In Prison My Whole Life』、『Battle In Seattle』と『Trouble The Water』だ。完全にマッシヴ・アタックの活動とは別軸にあると判断していた2人はそれぞれのクレジットを「Robert Del Naja and Neil Davidge」もしくは「100 Suns」という名義で制作した。2007年にバンドのMySpaceを通じてStephanie Dosenがツアーに参加している事が判明し、Elizabeth Frazerと共に世界ツアーを継続する。2007年2月にマッシヴ・アタックはHoping Foundationの為のチャリティー・ベネフィットをホストする。このチャリティーはパレスチナの貧しい子供たちへ向けての活動で英国を代表するポリティカル・バンドとしての勲章を持つことに。その1年後の2008年にはMeltdownという一週間続くイベントをキュレートした。マッシヴ・アタックと縁のあるバンドたちや日本からはあのYMOやGrace Jonesなどといったアーティストを招聘し成功させる。このイベントの開催と同時に世間はマッシヴ・アタックの新作を過多に期待するようになる。年末には「Q Award for Innovation」を受賞。
ちょうど2人がこの賞を受賞した頃からロバートとダディーGはデーモン・アルバーン(ブラー/ゴリラズ)のスタジオに出入りするようになる。曲を書いたり、ジャムったり有益なプロダクションが進んだ。他でもNeil DavidgeはPaul McGuianの映画『Push』のスコアを仕上げ、ロバートは『44 Inch Chest』という映画のサウンドトラックをThe InsectsとAngelo Badalamentiと共に仕上げた。
伊・映画『Gomorra』に提供した「Herculaneum」というインスト・トラックでロバートはイタリアのオスカー賞といわれているDavid DiDonatello AwardにてThe Best Song賞を受賞。
そして2009年に入って、ロバートとNeil DavidgeはダディーGを迎えて5枚目となるスタジオ・アルバムの制作ピッチをあげる。中でもデーモン・アルバーンのスタジオでのセッションが特に良かったみたいで、それらの素材をブラッシュ・アップしつつ仕上げる。
元々『Weather Underground』と噂されていたタイトルだが、発売日に関しても二転三転しているとおり、最終的に2010年リリースに落ち着くまでは長い道のりがあったことは否めない。2009年のBestival Festivalのヘッドライン・パフォーマンス、それに続く9月のUKツアーが確定してまもなく全てのファンが新作のリリースを確信した。同時にロバートは自身のブログで新作のリリースをほのめかした。2009年、マッシヴ・アタックはバンドとして英・Ivor Novello Awardsにて「Outstanding Contribution to Britis Music Award」賞を受賞している。
そして10月に新作からの先行EP『スプリッティング・ジ・アトムEP』をデジタル、ヘヴィー・ヴァイナルにてリリース。全4曲収録でHorace Andy、Damon Alburn、Tunde Adebimpe、Martina Topley-Bird、Guy Garveyなどのコラボレーターが明らかになる。
Ivor Novello Awards受賞の際にロバートは年内にリリースすると発言したにもかかわらず最終的には2010年の2月というリリース・デートに落ち着いた最新作『ヘリゴランド』。既に発表されているコラボレーターも豪華だが、どうやらAlice RussellやPatti Smith、David Bowie, Tom Waits、Trickyなどにもトラックを送ってやりとりがあったが現時点では実りある楽曲としては完成してない模様。Mark Stewartもマッシヴ・アタックとトラックを完成させたと発言しているが最新作には収録されない模様。
遂に、本当に遂に!2010年2月、マッシヴ・アタック、5枚目のスタジオ・アルバム『ヘリゴランド』が発売になる。
(順不同) Shara Nelson / Horace Andy / Tricky / Tony Bryan / Claude Williams / Neneh Cherry / Tracey Thorn / NicoletteElizabeth Fraser / Sarah Jay / Sine´ad O'Connor / Damon Albarn / Carlton McCarthy / Caroline Lavelle / Madonna / David Bowie / Mos Def / Dot Allison / Debbie Clare / Terry Callier / Tunde Adebimpe / Martina Topley-Bird / Guy Garvey /Hope Sandoval…
Neneh Cherry / Lisa Stansfield / Jesus Loves You / Nusrat Fateh Ali Khan / Kwanzaa Posse / Les Negresses Vertes /Peter Gabriel / U2 / Indo Aminata / Garbage / Manic Street Preachers / UNKLE / Primal Scream / A Perfect Circle /The Dandy Warhols / Lupine Howl / Ini Kamose and Damian Marley / 4 Hero…
1995年 MTV European Music Awards 「プロテクション」 最優秀ビデオ賞
1996年 BRIT AWARDS Best Dance Act賞
1998年 『メザニーン』 UKアルバム・セールス・チャート1位獲得
1998年 MTV European Music Awards 「ティアドロップ」 最優秀ビデオ賞
1998年 『メザニーン』 Q Awards Best Album賞
1999年 BRIT AWARDS 『メザニーン』5部門ノミネート
1999年 NME Awards God Like Genius賞
2003年 『100th WINDOW』 UKアルバム・セールス・チャート1位獲得
2008年 Q Awards Innovation Award賞
2009年 Ivor Novello Awards “Outstanding Contribution To British Music Award"賞