ジュリー・ロンドン・オリジナル紙ジャケ・コレクション

ドン・バグレー スペシャル・インタビュー

『彼女の名はジュリー Vol.1』ジャケット 『ロンリー・ガール』ジャケット『 	カレンダー・ガール』ジャケット『アバウト・ザ・ブルース』ジャケット 『メイク・ラヴ・トゥ・ミー』ジャケット 『ジュリー』ジャケット 『彼女の名はジュリー Vol.2』ジャケット 『ロンドン・バイ・ナイト』ジャケット 『スイング・ミー・アン・オールド・ソング』ジャケット 『ユア・ナンバー・プリーズ』ジャケット 『ジュリー・アット・ホーム』ジャケット 『アラウンド・ミッドナイト』ジャケット 『ホワットエヴァー・ジュリー・ウォンツ』ジャケット 『ソフィスティケイテッド・レディ』ジャケット 『ラヴ・オン・ザ・ロックス』ジャケット 『ラテン・イン・ア・サテン・ムード』ジャケット『この世の果てまで』ジャケット 『ザ・ワンダフル・ワールド・オブ』ジャケット 『ユー・ドント・ハヴ・トゥ・ビー・ア・ベイビー・トゥ・クライ』ジャケット『イン・パーソン・アット・ジ・アメリカーナ』ジャケット『アワ・フェア・レディ』ジャケット『フィーリング・グッド』ジャケット『オール・スルー・ザ・ナイト』ジャケット『フォー・ザ・ナイト・ピープル』ジャケット『ナイス・ガールズ・ドント・ステイ・フォー・ブレックファスト』ジャケット『ウィズ・ボディ・アンド・ソウル』ジャケット『イージー・ダズ・イット』ジャケット『 	ヤミー・ヤミー・ヤミー』ジャケット

アルバムの多くに関わり、64年来日にも同行したベーシスト&アレンジャー、ドン・バグレー。2010年5月、LAの彼の自宅を訪ね、当時の思い出を語ってもらったスペシャル・インタビューをお届けします。

取材:ビル・リード  訳・構成:高田敬三

Q. ジュリー・ロンドンとは何時頃からのお付き合いですか。

A. ボビー・トゥル―プと仕事を始めたのが1950年代の後半でした。トゥループとジュリーは、未だ結婚する前の頃です。彼は、「スターズ・オブ・ジャズ」というTV番組を持っていて、ロスアンジェルス近辺で仕事をしていました。私は、彼とクラブで仕事をしている時ジュリーと会ったのです。彼女との最初のレコードは、1960年の「ジュリー・アット・ホーム」でした。

Q. 彼女の自宅でやったやつですね。

A. その通りです。

Q. その後、貴方のジュリーとの関わり合いはスピード・アップして行きますね。

A. ハイ、最初の頃の、ジュリーとの仕事はカルテットかクインテットでした。私のベースと、ドラマ―、そしてトランペット・プレイヤー、ジョー・バーネットです。ノートルダム大学、オハイオ州立大学なんかでコンサートをやり、かなり遠くからも聴衆が詰めかけて来ていました。

Q. ボビー・トゥル―プがピアノだったのですね。

A. いいえ。彼は旅には同行しましたが、ジュリーの伴奏メンバーではありませんでした。彼女は、ギターをフィーチャーしていましたから。

Q. ビッグ・バンドはどうだったのですか。

A. あの時点ではビッグ・バンドは使っていませんでした。でもその中、ジュリーがラスヴェガス・タイプの所でやりたいと言い出して、ビッグ・バンドやヴォーカル・グループを含めたラスヴェガス・タイプのショウを考え始めたのです。彼女は、ザ・フォー・フレッシュメンが大好きで、その為、ケン・アルバース(フレッシュメンのメンバー)を雇って(彼女のバック・コーラスの)ヴォーカル・チャートを書いてもらっていました。そのバック・コーラスは、私たちと一緒に旅をして、1964年のアメリカーナの録音にも参加しています。その他、ラスヴェガス、タホー、プエルトリコ、オーストラリア、日本でもビッグ・バンドと仕事をしています。

Q. これは日本向けのインタヴューなのですが、2回の日本公演の思い出をお聞かせ願えますか。

A. 日本のミュージッシャンが如何に素晴らしかったか良く覚えています。彼女は、リズム・セクションとトランぺッターだけを連れて行きました。あの時代は、何処のホテルも物凄く良いバンドを抱えていました。日本では我々が出演したラテン・クォーターのバンドと一緒にやりました。TVスタジオへ行ってスペシャル番組を録画した時もラテン・クォーターのバンドを使いました。彼らは、素晴らしかった。もう一つは、プロモーターの永島さんが如何にグレートだったかです。彼は、日本で高額のタレントを扱っていましたが、我々皆を王様のように扱ってくれました。ジュリーだけではなく、ミュージッシャン全員をです。毎晩のように夕食に連れて行ってくれて神戸ビーフなどをご馳走してくれました。メルセデス・ベンツを運転手付きで24時間貼り付けてくれました。私は、ニ度ともジュリーの日本公演に同行しています。

Q. ホテル・アメリカーナでのライヴ録音のメンバーは誰だったのですか。

A. ホテルのオーケストラです。といってもあの時代のニューヨークのベスト・ミュージッシャン達でした。たとえばジェローム・リチャードソンとか。我々のショウは、たしか、第2幕目だったと思います。第1幕は、ペギー・リーで、その後が、ジュリーでした。バンドには、トップ・ミュージッシャンがそろっていました。クインシー・ジョーンズがニューヨークにいて、映画「質屋」のサウンド・トラックを録音していたのです。アメリカーナのバンドのメンバーの多くは、昼間その録音をしてから来ていましたから。ビッグ・バンドで歌う時もジュリーは、ギターが必要でした。ショウの中に幾つかのギターとベースだけで歌う場面があったからです。ロスではバーニ―・ケッセル、ハワ―ド・ロバーツなどのグレート・プレイヤーと何時もやっていましたが、ニューヨークでは、アメリカーナのバンドのギタリストは、駄目でした。彼女とまったく合わないのです。私は、サル・サルヴァドールとは、ケントン時代に一緒だったのですが、彼がたまたまニューヨークで仕事をしていまして、電話して仕事やってくれないか、と聞くとオーケーだったので、彼に参加してもらいました。彼の仕事が有る時は、トラを送ってきましたが、それはなんとバッキー・ピザレリでした。ジュリーは、バッキーのギターにすっかり参っていましたが、録音の時は、サルヴァドールでした。

Q. 彼女は、子供が8人いたと思いますが、子供達はどうしていたのですか。

A. ボビーとの間の最初の子供、ケリ―は、まだ赤ちゃんでした。ジュリーは、何時も彼女を連れて旅をしていました。ベビー・シッタ―がいつも同行していましたから。双子の子供は、彼女がツアーを止めてから生まれています。 

Q. ジュリーは、どうしてピート・ルゴロとレコーディングをしなかったのでしょう。

A. ちょっと驚きですね。 多分、レーベル問題が有ったのでしょう。彼はマーキュリーの専属だったし、ジュリーは、リバティでしたから。

Q. 貴方は、1960年の「ジュリー・アット・ホーム」から彼女のレコーディング・キャリアが終わるまで、ずっと一緒だったのですね。

A. そうだと思います。彼女は、レーベルの第一人者で、レコードも売れていました。

Q. 「フォー・ザ・ナイト・ピープル」と「ナイス・ガールズ・ドント・ステイ・フォー・ブレックファスト」は、貴方がアレンジャーですが、ミュージッシャンは、誰だったのですか。

A. 私の記憶では、ジョニー・グレイ(g)ジミー・ロウルズ(p)私、そして多分、アール・パルマー(ds)だったと思います。「ナイス・ガール」の一曲目は、「フォー・ザ・ナイト・ピープル」の時の録音を使っています。この曲はジェローム・ルシャイが書いたのですが、録音の時、たまたま彼もスタジオに来ていました。彼は、アップ・テンポで書いたのですが、私は、ジュリーと相談してスロー・テンポにしたのです。録音が始まると彼は、コントロール・ブースから飛び出してきて、「こんなテンポでは曲がだいなしだ。」と怒るのです。何とかなだめて最後までやりましたが、出来上がってみると彼は、満足のようでした。「ナイス・ガール」の他の曲は、同じメンバーで録音したものに、カルヴィン・カーター(プロデューサー)が他の楽器をオーバー・ダブしたものだったと思います。メンバーは、ジャック・シェルドン(tp)、ボブ・クーパー(ts)グルーヴ・ホルムス(org)ではなかったかと思います。

Q. 後期の「イージー・ダズ・イット」のアルバムのギターは、誰だったのでしょう。

A. ちょっと覚えていませんね。でも彼女は、後期には殆どジョニー・グレイを使っていましたよ。

Q. ジュリー・ロンドンのアルバムは、ミュージシャンのクレジットが無いのが多いですね。私は、以前からこれは、リバティが彼女のアルバムをセックス・シンボルとして内容もさることながら、むしろジャケットで売ろうとしたせいだと考えているのですが、如何でしょう。ムード・ミュージックにはミュージッシャンの名前はいりませんからね。

A. 私もその通りだと思いますよ。「カレンダー・ガール」など録音よりジャケットの写真撮影に時間が掛かったという話もありましたから。

Q. 彼女は、時々、ジャズと言うより、もっとコマーシャルな録音をやっています。彼女は、そういう録音に関してどういう風に感じていたのでしょう。

A. 少なくとも一度は、一線を画したことがあります。スナッフ・ギャレットのプロデュ―スによるカントリー・アルバムの話がありました。彼が歌のリストを持ってきましたが、最初から彼女は、嫌がっていました。私がストリングスの編曲をして、ジャズのコードを使ってアレンジを書きました。歌が歌ですが、最高のものが書けたと思います。録音のファースト・セッションまでは、彼女は、一生懸命やっていました。でも、ついに「私は、降ります。」といって止めてしまいました。彼女は、いやだったのです。他の歌手に歌わせれば良いのにと思っていたかもしれませんね。でもそれは彼女の言うべきことではないですから。スナッフが持ってきた企画が彼女にまったく合わなかったのです。一曲目をやったところで「ノ―」と言ったのです。ミュージッシャンは、スタジオに集まっていましたし、リバティは、ワン・セッション分のお金を払わなければならなかったのですが、彼女は、リバティの中ではそういう事をいえるほど強かったのです。ということでこの時は、録音は、していません。私の知る限り、彼女の未発表や、発売がキャンセルになったアルバムは無いはずです。

Q. コマーシャルな録音に関してですが、「ミッキー・マウス・マーチ」の録音は、誰のアイディアだったのですか。

A. ジュリーです。彼女は、後でウォルト・ディズニーから気に入った、というようなことを言われたみたいですよ。我々は、ディズニ―の「ギヴ・ア・リトル・ホィッスル」も録音しました。セクシーなスロー・テンポのヴァージョンです。私のアイディアですが、彼女は、気に入っていました。

Q. 彼女は、録音する時間は何時が好きでしたか。

A. 夜の時間です。

Q. 彼女の辛らつぶりは有名ですが。あの有名なレコーディング・セッションのアウトテークを聞いたことありますか。彼女は、本当に言いたい放題という感じですが。

A. 聞いたことありますよ。彼女は、いつも歯に衣をきせない人でしたね。彼女は、強い性格でしたが、同時にあんな上品さも持ち合わせていました。彼女の更衣室は、ハウス・バンドの人達も含めミュージッシャンに対して、いつもオープンでした。「一寸寄って一杯やっていきなさいよ。」といった感じです。スター気取りは一切ありませんでした。でもショウの始まる前はナーヴァスでしたね。マイアミに行った時のことです。フロント・マンがオーナーのように見せかけたギャングが経営するといわれた大きなホテルに出た時のことです。この男が、彼女の更衣室へ「ミスター某(ギャングの親分)がショウの後でジュリーさんと会食したい。」と言っております。とメッセージを持ってきました。彼女は、「4人のミュージッシャン達はどうしますか。」と聞くと「貴女だけです。」という答えでした。彼女は「ミスター某にお伝えください。ミュージッシャン達と食事することになっています。」と言ってその男を返し、ミュージッシャン達を連れて外へ食べに行きました。彼女は男たちと外をぶらつくのが好きでした。まだ、スモール・グループでやっていた時、ビッグ・バンドでやることを考えていて、私がジュリーにアレンジは、私に書かせてくれ、というと『オーケー』と簡単な返事でした。公演は、だいたい一週間からニ週間でした。ラスヴェガスが何回もやりましたし、プエルトリコは、ニ・三回行っています。彼女とは100回以上ショウをやったと思います。私は、アレンジャーで指揮者で、バンドのリハーサルをやり、勿論、ベースも弾きました。テンポを決めるのもスタートのキューをだすのも私でした。私は、ミュージカル・ディレクタ―だったのです。

Q. 彼女がレコーディングを一緒にしたい好きなミュージシャンは誰だったですか。

A. 彼女は、ジミー・ロウルズが大好きでしたね。我々のセッションには最高のミュージシャンを使っていました。カンドリ兄弟、バド・シャンク、ボブ・クーパー、ジャク・ニミッツ等です。彼女はケントン楽団の大ファンで私が同楽団に居た時には全てのメンバーを知っていました。

Q. 彼女は、楽譜は読めましたか。

A. いいえ。彼女は、誰かに音にしてもらっていました。

Q. 彼女の声は、彼女が言っていたほど小さいものではないですよね。

A. その通り。彼女は本当にマイク・テクニックを理解していました。

Q. 日本のTVスペシャルでは大声で歌っています。

A. 彼女は、必要な時にはそれが出来たのです。そして、ギターだけの静かな瞬間もやってくる。シナトラも同じことをやりますね。ショウの中程で、「イン・ザ・ウィー・スモール・アワーズ」を歌ったり。

Q. 彼女は貴方にとってナンバー・ワンのボスだったとおっしゃいましたが、どうしてですか。

A. 彼女は、ミュージッシャン達を大切にしてくれました。ギャラの話の時は、いつも色をつけてくれたし、いつも前払です。 彼女の家へ招かれればファミリー同様です。「ジュリー・アット・ホーム」の録音の時は、軽く一杯やって、ディナーを食べて、それからの録音でした。彼女は、ミュージッシャンが大好きだったのですね。

ドン・バグレー
ベーシスト、アレンジャー。1927年、ソルトレイクシティ生まれ。50年~53年、スタン・ケントン楽団に在籍。その後、レス・ブラウン楽団でも活躍。64年に、ジュリー・ロンドンと共に来日している。ナット・キング・コール、メイナード・ファガーソン、デクスター・ゴードン、シェリー・マン、ジミー・ロウルズ、フィル・ウッズらと共演。代表作にケントン楽団の作品の他、「ベイシカリー・バグレー」(Dot)がある。

ビル・リード
ショウ・ビジネス、アート、ポピュラー・カルチャーに関する執筆家。ローリング・ストーンズ、サンフランシスコ・エクザミナ―、インターナショナル・ドキュメンタリーなどに執筆。ヒットTVシリーズの「ワン・デイ・アット・ア・タイム」にも関わり、『ロック・オン・フィルム』の共同著者。著作「ホット・フロム・ハーレム:12人のアフリカン・アメリカン・アーティスト(1890~1960)」の改定版が2009年にマクファーランド・プレスから出版。新著「ア・ファイン・ロマンス~マイ・ライフロング・アッフェアー・ウィズ・ジャズ・シンギング・アンド・シンガーズ」は、2010年秋に出版予定。