【椎名林檎デビュー10周年インタビュー】

──デビュー10周年おめでとうございます!10周年を迎えた今の心境はいかがですか?
「特に変わらないんですよね。この10年を振り返ると、そんなに長く仕事をしていた気がしないんです」

──デビュー当時、10年後のご自分のイメージは想像してました?
「あ、そういえば、その時の方が想像していました。“10年後にこういう音楽を作れるようになりたいな”っていうヴィジョンはあって、“そのためにこういう作品をリリースしているんだってことを少なくともスタッフの方や参加してくださるミュージシャンの方にはご理解頂かなければいけない” と思っていて、実際にそういう順番で作品を録っていったつもりです」

──その作りたかったものというのを敢えて言葉にするなら?
「予算を気にしないレコーディング?(笑)。単純な話、『加爾基 精液 栗ノ花』みたいなものです。レコーディングに時間をかけさせて頂く点です。あと、若作りしない感じ。まぁ、まさに『加爾基〜』みたいなことを早くやりたかったんです。デビュー当時から放任されていたら、ついそういう方向に向かってしまいがちでした。そこで亀田さんや森俊之さんだったりが若作りさせてくださって、ナチュラルに見えるようなハード・メイクをしてくださったと思っていて。でも、その“ハード・メイクをせずに音楽が出来るんだったら、全く違う意味で、爽快なんだろうな”と思いつつ……それ以前にこの仕事は続かないだろうなと思っていましたしね。私がデビューした1998年って、リリース・バブルって感じで新人さんがすごく多かったんです。デビューしてから1年後に会えなくなっちゃった人も多かったから、私もそうなって、地下生活をおくることになるかもしれないし、続けば、とにかく『加爾基〜』みたいな音楽的すっぴんがやりたいと思っていましたね」

──では、『加爾基〜』に向けて、自覚的にそれ以前の作品を作っていた、と。
「自分の中だけの話としてはそうだったんですけど、実際には予定調和なものを作れていなかったというか、ハプニングみたいな想像だにしなかったことが沢山起こりましたよね」

──それから、先ほど、「デビュー時はリリース・バブルだった」っておっしゃっていましたけど、林檎さんを取り巻く状況だったり、シーンの移り変わりに関してはどう思われます?
「当時は気付かなかったことなんですけど、担当デザイナーの木村さんが七尾旅人くんから聞いた話で、くるり、ナンバーガール、スーパーカー、旅人くんだったりっていう'98年デビュー組って、ずっと活動している人が多いんですって。その話を聞いて、はっと思ったんです。'98年に我々をデビューさせてくださったレコード会社のスタッフがどの会社も偶然素晴らしかったっていうことなのかもしれないですよね。おかげさまで出だしが良かったために、シーンの動向に左右されたり、レコード・バブルが弾けたことに対して、憂いたり、嘆いたりしてなかったなっていうのが総合的な印象としてあって。ただ、色んな現象を一つ一つ見ていくと、“どんな原因で今の音楽産業が低迷しているの?”っていうことよりも、“私たちがデビューさせて頂いた当時、何であんなに音楽シーンが栄えていたの?”ってことを思うんですよね。デビュー当時はシーンというか、作品そのものが活き活きしていたと思うんですよ。私たちより先にデビューしていたイースタン・ユースだったり、ブラッドサースティ・ブッチャーズだったり、繊細な表現の作品をリリースしていた方々が多かったし、あんなに沢山のエポック・メイキングな作品がリリースされていた状況こそ奇跡だったんだなって今となっては思います」

──今挙がったアーティストって、メインストリームで活動はしていましたけど、音楽的、スタンス的にはオルタナティヴですよね。林檎さんがデビューされたのは、そういう作品がメジャーからリリースされた時代なんじゃないかと。そして、彼らはレコード会社との契約があろうがなかろうが、音楽は続けている人たちなんじゃないかと思います。
「そうですね。私もそう思います。しかも、2000年くらいまでの間にそういうアーティストが音楽ビジネスの成功例というか、真似するべきフォーマットみたいになっちゃったところがあって。ちゃんと聴いたわけではないからはっきりしたことは言えないんですど、2000年前後の音楽は、どれも音が潰れてて、ノイジーで、ピッチもよく分からないくらいガーッとしているものがメインになって、オルタナティヴな概念が日本ではひっくり返ってしまった。つまり、メインとサブが両方なきゃいけないのに、サブがメインになってしまって、しかも、塗装はしてあっても中はスカスカっていう軽薄なものが増えていったっていう。そんな状況下で、“やっぱり無垢なものがいい”って思った人たちはライヴに足を運んだから、ライヴ・シーンは充実してきたし、ナンバーガールみたいな人たちにとってははっきりした答えを突きつけることが出来た好機でしたよね」

──それから、林檎さんの10年を振り返った時、ミレニアムだったり、9.11の事件っていう大きな節目がありましたよね?
「その頃のことを思い出すと、私、すごいインドアで、1999年から2000年に変わる大晦日に聖飢魔IIのライヴへ行く友達から“家に寄ってもいい?”って言われて、“年またいでからでもよくない?”って答えた記憶があるほどに、ずっと家にいて、世界との関係が希薄だったというか、ひとりぼっちで気怠い気分でしたね。当時は先に見えていた風景が全く見たくなくなっていた時期でしたよ」

──9.11の事件が当時のぬるい空気を壊して、そこから表現全般のリアリズムも変わっていった気がしますし、それは『加爾基〜』にも影響を与えていると思うんですよ。『加爾基〜』が最終的に作りたかった作品であることを考慮しても、『勝訴ストリップ』と比較して、よりシリアスなものになっていますよね。
「分かります。だって、『勝訴〜』の頃って、未だモラトリアム期全盛で、子供を盾にふざけていたというか、デカダンスであることを先にイメージ付けして、次の作品に行くつもりだったんですけど、9.11によって、世界が哀しみで溢れかえったから、『加爾基〜』はすごく出しづらくなっちゃいましたよ」

──9.11が現実に起こると、フィクショナルな要素も含まれる音楽のリアリティは薄まってしまうでしょうし、かといって、生々しいものを出すのも難しいっていう。
「そう、私も含め、色んなアーティストにとって難しい状況だったと思います。モード・ファッション界では、ハートやアーミー柄だったり、ピースなイメージをモチーフやロゴに使ってて、それはそれでいやらしく見えるし、かといって全く関係ないっていう顔も出来なかったっていう。そういう意味では振り返ると、激動の10年でしたよね。誰の10年を切り取っても、みんなそう言うと思いますけど(笑)、でも、確かにそういう印象はあります」


■ファースト・アルバム『無罪モラトリアム』までを振り返って

──それでは10年の足跡を紐解いていきたいんですけど、まず、ファースト・アルバムまでの時期をご自分で振り返って、どう思われますか?
「今にして思えば、当時の何も気にしていない状態がとにかく羨ましく思えます」

──若さゆえの疾走感みたいな?
「それが地で出来てたから、そこにはもう戻れないですよね。曲そのものはその時のリアルタイムではなくて、もっと若い時のものなので、そこで生じている摩擦みたいなものが全部入っていて、すごいなぁと思います」

──そういう意味ではファースト・アルバムらしいファースト・アルバムですよね。
「世に言う、ファースト・アルバムっていう体ですよね。あと、楽器を自分でいっぱい弾いているのも面白いですよね。最初、弾かせてもらえなくて、そこからだんだん覚えて自分で弾くようになるっていうのはよく聞く話だから、自分で弾きたいって言ったわけではなかったんですけど、そういう意味でも亀田さんが寛大でいらしたんでしょう」


■セカンド・アルバム『勝訴ストリップ』までを振り返って

──そして、『無罪〜』以降、セカンド・アルバム『勝訴ストリップ』までの時期は自由に音楽を極めていきつつ、状況的には大きな注目を集めていたうえに多忙を極めていて、精神的に負担が大きかった時期ですよね。
「30歳を成人式にしようっていう話があったりしますけど、時間が経った今、考えてみると、この頃は子供のまんま、子役デビューしちゃったような感じだったんでしょうね。覚悟が出来てる出来ていないっていう話以前に、肉体と現実社会のバランスをとることが難しかった。あれだけ多忙な中に身を投じて、自分の時間を削られながら、例えば、曲は出来ているのに録音が出来ないっていうようなストレスとどういう風に付き合うかって心構えが出来ていなかったので、とにかく、仕事がイヤでイヤで、みんなから嫌われたかった。一人の時間が欲しくてたまらなかったし、放っておいて欲しいっていう感じでした。でも、そのストレスを当時の私は理解出来なかったです。だって、音楽を聴いてもらえるのはうれしいから、頑張ろうと思うじゃないですか。でも、私の全てを全部売らなきゃいけなくて、しかも、それをずっとやらなきゃいけないって言うんだったら、今とにかく休ませて欲しいって思っていましたね」

──そういう心境はセカンド・アルバムに何らかの形で反映されていますか?
「セカンド・アルバムなんかはまだ『無罪〜』が100万枚越えする前、レコーディング自体を面白がっていた時期に録ったものなので作品それ自体には反映されていないんですけど、『勝訴〜』の取材時期がものすごく過密で。あんなに無邪気に録ったものなのに、“どうなっているんですか、あなたは。どういう考え方で社会と折り合いを付けているんですか?”っていう話になったりして。“折り合いっていうか、社会と関わってないもん。知らないよ”って思いつつ、“レコーディングをあれだけ楽しんだんだから、この発言で責任を取っていかなきゃいけないんだ”って捉えるしかなかったし、急に嘘でも社会と対峙することになって、作品を通じて向き合う自分の人生とはまた別のメガネを持たなきゃいけなかったっていう。曲はまだいいんですけど、歌詞を書くことは、だから、すごく難しいことだと思いますね。いわゆるリスナーの方って、アーティストが発した言葉を安易に取り沙汰しちゃうところがあるじゃないですか。そうなると全く意図してないことが知らないところで起こってしまうっていう」

──発した言葉の重みが勝手に増幅されてしまうというか。これは矢面に立ってみないと分からないことだと思います。
「そう。書いてる時、録ってる時は考えも及ばないし、実際に感じてみないと分からないことなんですよね 」


■『絶頂集』からカヴァー・アルバム『唄ひ手冥利〜其の壱〜』までのゆるやかなリハビリ、小休止期間を振り返って

──そして、その後の『絶頂集』、「真夜中は純潔」、そして、今回の『私と放電』には収録されていませんけど、カヴァー・アルバム『唄ひ手冥利〜其の壱〜』が一塊で捉えられる期間かなと思うんですけど、『勝訴〜』のリアクション、その反動がこの時期に表れていますよね。
「まぁ、しわ寄せが来ちゃったんでしょうね。結果的には小休止をしたんですけど、“無理だな。私には合ってない”と思ってしまって、本当は音楽活動から退いてしまうつもりだったんです。向いてないとか合ってないとか言うほど何も経験していないのに、当時はそう思いました」

──そういう心境からのリハビリ期間に、まずは『絶頂集』をリリースしたわけですけど、これは無邪気にバンド活動に没頭するっていうニュアンスが強い作品ですよね。
「そうですね。あと、この時期くらいからだんだん怖くなっていったのが、流れ作業のようにぽんぽん作品を出すことに慣れてしまっていて、スタッフも面白がっていたんですけど、いつ曲を書いているか、誰も知らなかったんですね。だから、いつの曲だか分からない曲が入ってるカセットをスタッフみんなが何本か持っていて、“このカードをいつ切るか”って話し合っているような、そんなムードだったんですね。そうなった時に“もうデモテープを渡したくない”って思うようになってしまった。でも、渡したくないってことを考えるより、まず、曲を作るためにはどれくらいの労力が必要か。それ相応のクオリティの作品にするためには感じることだったり、思いも必要だし、そうなったら、それなりに人との関わりも必要だとか、そういうことをスタッフに分かって頂く必要があった。そして、リスナーの方にも“そんなに気むずかしいことをやってるわけじゃないんだよ”ってことを知って頂くために発育ステータスっていうバンドを始めたんです。常に苦悩しないと、不健康じゃないと許してくれないというか、自分がそういうところからいよいよ抜け出せなくなっちゃいそうだなって思ったから。ライヴを観てるお客さんもすごい思い入れて下さってたし、何処か怖かったんですよ。だから、そういう理由から発育ステータス始めて、発育があるなら、他のライブも録音しようっていうことになって、『絶頂集』っていう形に落ち着いたんです」

──その後、「真夜中は純潔」リリースのタイミングで林檎さんのご懐妊ということもあって、PVがフル・アニメになったという出来事もありましたが、そうやってプライベートに立ち返った時期は大きかったのではないかと思うんですけど。
「お陰様で子供は小学校に上がりました。この時期の経験は今の私にもすごく影響していますよね。子供っていう授かりものは自分でコントロール出来ることじゃないし、せっかく授かったとなったら、そのまま家庭に入って、ホントに音楽仕事を辞めちゃおうと思ったんですけど、なんとなく、全部がそのまま進んじゃっていて、そこで私が辞めようって言って、辞められることではなかった。で、まぁ、生業として成立してしまっていることだったんだなって分かったのもあるし、それでも“子供育てなきゃならないから音楽なんて出来ないよ”って言ってたところで一番大きかったのが9.11テロの一件なんです。まず、そこには“私は私の都合で人としての営みが出来ないと曲が書けません”っていう思いがあって。“いい曲書けなかったら、意味ないし、出てくる曲が殺伐として営みを欠いた体温のないものだったら、しょうがないから人として生きたい”って、そう思っていたんですけど、テロの一件で両方しなきゃいけないんだなって思わされたんです。両方っていうのは、つまり、自分を成長させてくれるし、すごいかけがえのない繋がりだし、子供ほどの授かりものはないんですけど、そういう子供との生活がある一方で私には繋がってしまった人がいっぱいいて、そこで取るべき責任も少しだけどあるかもしれない、と。お金を持ったからLOHASに取り組むっていうこととは全く関係ないフラットなところ、もし貧乏でもどんな状態であっても、ああいう事件が起きたら感じただろうなっていうことが『加爾基〜』に繋がっていくんです。すぐにぱっとそれを発表したいと思ったわけではないし、そこから大分時間はかかりましたけど、いずれ、そういう作品をいい時期に聴いて頂きたいなって思うようになったんです」


■サード・アルバム『加爾基 精液 栗ノ花』を振り返って

──そして、カヴァー・アルバム『唄ひ手冥利〜其の壱〜』を経てリリースされたサード・アルバム『加爾基 精液 栗ノ花』ですけど、この作品は、今の林檎さんにとって、どんな作品ですか?
「ヒット・メイカーであり続けるっていうことがとにかくイヤだったんだろうなっていうことはなんとなく分かっていて。パーソナルな表現っていうのは、それを売るにしろ売らないにしろ勝手に起こることじゃないですか。例えば、朝着るものを選ぶことだって、そうだと思うし、誰もが自然にやっていることですよね。ただ、そういうことをし続けるのはいいんですけど、わたしの売っている商品は、手作りの音楽であり、アートとかカルチャーは取り扱ったつもりがないんです。自分が面白がって録音に携わることから始めないと、次は無理だなって。だから、「真夜中〜」とか、そういう過去の作品をコラージュしたアルバムを作るっていう昔考えていたアイディア、それから9.11を経て、自分の思っていた、すごくシンプルな一言くらいのメッセージを膨らませたうえで、録音組曲にするっていうヴィジョンをはっきり持って、私はエンジニアの井上雨迩さんだけを制作のパートナーに選んだんだと思います」

──こういうアルバムを出すってことは一つ大きな冒険だったと思うんですよ。
「そうですね。この作品にはほとばしる演奏だったりパフォーマンスの妙は全くないですもんね。そういうものにニーズがあるとは思っていなかったので、聴いてもらえない前提でやらせてもらったんですけど、自分の声を楽器として捉えるっていうこととか、音楽の数学的な部分を模様として捉えるのがすごく楽しかったですね。だから、勉強というか、研究している過程ですよね。あと、パイプオルガンを何小節か録るだけのためにオペラシティのホールを借り切ってもらったり、もったいないというか、取り返しの付かないことをやらせてもらいましたよね」

──でも、そういう試みをやり遂げたことで、ご自分の作品イメージを具現化出来たと思うんですよ。それ以前の作品ではそういう部分を抑えてきたのに対して、ここでは抑えていた部分を全開にしているわけですよね。
「そうですね。このアルバムは、音の鳴りとか録音のやり方を含めた録音機材の勉強でもあり、とにかく楽しんでレコーディングさせて頂いた作品だと思います」


■『加爾基 精液 栗ノ花』以降、現在までの歩みを振り返って

──その後、リリースされた「りんごのうた」、そして、東京事変の活動を挟んで、個人活動に立ち返った『平成風俗』は、林檎さんんがフラットな状態で音楽と向き合えるようになった時期なのかな、と。
「そうですね。結構最近のことですもんね。発育をやろうと思った時と同じ感じで組んだ事変の場合は発育よりももっと商業ポップを作らなきゃいけないけど、メンバーさえよければ楽しんでやれるんじゃないかって楽観してます。続けていくなら、そういう楽しみがないとヒットもないっていう」

──今もそうだと思うんですけど、過剰な意味づけや思い入れを増幅させるものではなく、より音楽的なものに向かっていますよね。
「まぁ、でも、『加爾基〜』を作らせて頂いた時点で、腹を括ったところがあったし、安堵したところもあったんです。それから『唄ひ手冥利』を作ったことで、オルタナティヴな態度のアーティストに惹かれるっていうことではなく、単純にどんなアレンジが施されていても、いい旋律を書くことに憧れているし、好きなんだっていうことも伝えることが出来たので大丈夫だという思いはありました。『加爾基〜』のレコーディングに集中してしまったことで感覚がなまって、実演をちゃんと出来る気がしなかったので、その後のツアーは時間を置いて行ったんですけど、事変はその時に“グループで音楽をやっていくんだったら、その先の話も出来る気がします”ってことでバンドを結成して、それを今もやらせて頂いているっていう」

──そして、迎えたデビュー10周年ですが、最後にリスナーに向けたコメントをお願い致します。
「ずっと初めからご贔屓にしてくださっていた方も、もしかしたらいらっしゃるのかもしれないなと思いつつ、そういう方は売上げに貢献してくださったでしょうし、口ずさんだり、何度も聴いてくださったんだろうなと思うと、10年っていう漠然とした数字も喜ばしく思えるんですけど、私は継続していることが尊いとはあまり思わないです。あっという間の逢瀬です。なにかいいものが1作でも届けられたら、その誕生こそが素晴らしいと思うんです。だから、もし、誰かにこの10年の作品で“この曲がいい”って感じて頂けるものが書けていたのだとしたら、もう充分に幸せです。自分で“すごい曲と出会っちゃった”って思える曲が死ぬまでに1曲でも書けたらいいなと切望するこの気迫で毎日精進していきたいと思っております。この10年、特に私の新譜を追いかけて聴いてくださった方もそうでなくてにわかに聴いてくださった方も、もし、今後そんな1曲があったら、褒めてやってください」

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