ジョン・レノンは1940年10月9日、イギリスの港町リヴァプールに生まれた。ということは、この10月で生誕70年となる。20世紀最大のポップ・グループ、ザ・ビートルズのメンバーとして60年代=20代を駆け抜けたジョンは、66年に運命的な出会を果たしたオノ・ヨーコと69年に結婚。ビートルズ解散後の70年代、ヨーコとともに新しい一歩を踏み出し、数々の傑作を残した。
70年代前半はヨーコとともに平和運動を精力的に推し進めながら、『ジョンの魂』(70年)、『イマジン』(71年)ほか数々の名作を残した。『ロックン・ロール』(75年)発表後は息子ショーンの誕生を機に子育てに専念し、5年間、公の音楽活動から遠ざかった。
そして、80年代を平和な時代にしようという思いを込めてヨーコとともに制作した『ダブル・ファンタジー』を発表。しかし発表直後の1980年12月8日、狂信的なファンの凶弾に倒れてしまう。享年40。2010年は、没後30年の年でもある。
その間、ジョンがオノ・ヨーコと共同で、あるいは単独で制作したオリジナル・ソロ・アルバムは計8枚ある。今回、オノ・ヨーコの監修のもと、オリジナル・ミックス音源がデジタル・リマスターされることになったが、それらのアルバム―最初のソロ・アルバム『ジョンの魂』(70年)から遺作となった『ミルク・アンド・ハニー』(84年)まで――を通して聴いていくと、ジョンの作品は、ジョンの生き様そのものでもあったことがわかる。
ジョンの70年代の“ソロ・イヤーズ"を、8枚のオリジナル・アルバム(と5枚のシングル)を追いながら振り返ってみる。
★タイトル中、青文字はシングル、水色文字はアルバムです。
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英 1970年12月11日発売/最高位11位 ビートルズ解散からソロへ。1960年代後半から70年代前半は、ジョンがビートルズの一員から“個"へと意識を変化させつつあったまさに変革の時だった。ジョン自身、「ビートルズに代わって僕の目を向けさせてくれるヨーコがいるのだ、と判断した時、僕はビートルズをやめる決心をしたんだ」と語っていたが、ヨーコとの“一心同体"の活動がジョンの目をより自分自身へと向けさせる大きなはずみともなった。そして生まれたのが初のソロ・アルバム『ジョンの魂』(70年)である。 ジョンはあくまでそれまでの自分が帰属していたビートルズを否定することで新たな地点に立つことを選んだ。『ジョンの魂』収録の「ゴッド(神)」でジョンはこう歌う。「ビートルズを信じない/ただ僕を信じるだけ、ヨーコと僕を」と。ビートルズ時代から、いや子供の頃からいつもセイウチの仮面をかぶっていた“何処にもいないアイツ"だったジョンの、これは高らかな“人間宣言"でもあった。 『ジョンの魂』は、アーサー・ヤノフ博士のプライマル療法(精神的なダメージの根本的な原因がどこにあるかを過去へ過去へと探っていき、「叫ぶこと」によってその傷を癒すという治療法)の影響下で制作されたアルバムでもあるが、ジョンは「マザー(母)」でこう叫ぶのだ。「ママ行かないで! パパ帰ってきて!」と。ヨーコとの初の共同作『トゥー・ヴァージンズ』(68年)で裸になったジョンは、ビートルズから解き放たれてこの『ジョンの魂』では精神的にも丸裸になった姿をみせた。 |
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英 1971年10月8日発売/最高位1位 69年にヨーコとともにアムステルダムやモントリオールで“ベッド・イン"を行なうなど平和運動を続けてきたジョンとヨーコは、ニューヨークに移住する直前、理想郷を夢見たスタンダード曲を書き上げた。それが『ジョンの魂』と並びジョンの代表作として挙げられる『イマジン』(71年)のタイトル曲「イマジン」である。 「あの歌は実際はレノン=オノの共作にすべきだった」とジョンも認めているように、歌詞とコンセプトはヨーコの詩集『グレープフルーツ』から採られたものではあったものの、理想の世界を歌った内容は、「ウィ・シャル・オーヴァー・カム(勝利を我等に)」を超えるような歌を作りたいという思いで書き上げた「平和を我等に」(69年)やメッセージ・ソング「パワー・トゥ・ザ・ピープル」(71年)をさらに一歩進め、普遍化したものでもあった。 「グループをカテゴリー化しようとするのは、物を宗教とか国籍とか民族とか肌の色とか信条とか性別の箱に絶えず入れようとするのと同じ心情だ」と後にジョンは語っていたが、名誉・肩書・所属などなどそのすべてから解放され、個と個が結びつくこと、そこに平和への道があるという想いがジョンの心の中にはあったのかもしれない。 その一方、ビートルズ解散の余波は尾を引き、この時期、ポールとの反目が作品でも顕在化している。ポールが2枚目のソロ・アルバム『ラム』(71年)でジョンを揶揄したのに対し、ジョンは『イマジン』収録の「クリップルド・インサイド」と「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ(眠れるかい?)」でやり返した。「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ(眠れるかい?)」では出だしにビートルズの「サージェント・ペパーズ~」風のSEを配したり、「イエスタデイ」などを引き合いに出したりとかなり辛辣だったが、匂わせるのではなく、単刀直入に切り込んでいく――ポールとのやりとりは、ジョンの信条を表わしたものでもあった。 |
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英 1972年9月15日発売/最高位11位 アメリカに移住したジョンとヨーコの平和運動は、71年から72年にかけてジェリー・ルービンやアビー・ホフマンら、いわゆる新左翼文化人との交流によって、より過激な方向へとシフトしていった。しかし、そうしたジョンの活発な行動に目を光らせた当時のニクソン政権は、72年3月、68年の麻薬不法所持の有罪判決を理由にジョンに対して国外退去を命じた。ジョンは電話が盗聴されたり尾行されたりしていることを訴えるなど対抗したが、結局、居住権をめぐるジョンとアメリカ政府との闘いが、このあと4年も続くことになる。 そんな激動の中で制作されたのがヨーコとの共作・共演アルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』(72年)だった。差別反対を歌った「女は世界の奴隷か!」やプロテスト・ソング「アッティカ・ステート」「血まみれの日曜日」「ジョン・シンクレア」をはじめ、ジョンのアルバムの中で最も“政治的"な作品となったが、ジョンの当時の心境や状況を思えばこれは必然でもあった。また、このアルバムは、直感に頼って行動することで道を切り開いていくというジョンの行動様式をわかりやく伝えるものでもあった。 しかし、暴力では何も生まれず、“政治的"であることが音楽の妨げになると悟ったジョンは、いわゆる新左翼文化人と袂を分かつ。「彼らは決して笑いを欲しがらず、ひたすら暴力を欲していた。僕は決して暴力には走らなかった。歌の文句じゃないけれど、僕には“愛こそはすべて"で、これこそ究極の政治理念だったんだ」 |
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英 1973年11月16日発売/最高位13位 73年3月にふたたび国外退去を命じられたジョンは、「4年目の結婚記念日を迎えたばかりで、まだ別々のベッドで寝る準備がととのっていない」とジョークで応じ、4月にはヨーコとともにニューヨークで記者会見を開き、空想の国家“ヌートピア"誕生を宣言する。これは「イマジン」の思想をさらに進めたもので、その想いはアルバム『マインド・ゲームス』(73年)のタイトル曲「マインド・ゲームス」として結実する。 ビートルズ時代の「レヴォリューション」(68年)に始まるジョンの社会的メッセージ・ソングの曲調は、年を経るごとにバラード・タイプのものへと変化していったが、それは、ジョン自らの心境が積極的なものから理想を夢見るものへと変わっていったのに呼応しているものでもあった。 この時期、居住権をめぐるアメリカ政府との闘争などが原因で精神的ダメージを受けたジョンは、『マインド・ゲームス』発売直前の9月、ヨーコに別居を言い渡される。そして秘書メイ・パンとともにロサンジェルスへと向かい、長い“失われた週末"が始まった。 |
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英 1974年10月4日発売/最高位6位 「動物園の象みたいなもんだった。檻に入れられているのがわかっているのに出ることができない。ビートルズ時代にハンブルクやリヴァプールでやっていた気狂い沙汰の延長さ」。 ジョンは後に、1年以上も続いたヨーコとの別居期間(“失われた週末")を振り返ってこう語っていたとおり、この時期、リンゴ・スターやハリー・ニルソン、キース・ムーンらと酒びたりの荒れた生活を送っていた。とはいえ、その間、アルバムも2枚制作している。そのひとつが『心の壁、愛の橋』(74年)である。 このアルバム以前にも、「ぼくを見て」(70年)、「ジェラス・ガイ」「オー・マイ・ラヴ」「オー・ヨーコ」(いずれも71年)、「あいすません」「ワン・デイ」「アウト・ザ・ブルー」「アイ・ノウ」「ユー・アー・ヒア」(いずれも73年)をはじめ、ヨーコへの想いを綴った曲は枚挙に暇がないほどだが、『心の壁、愛の橋』でも、「果てしなき愛(ブレッス・ユー)」や「心のしとねは何処」「愛の不毛」をはじめ、ヨーコと別居し“失われた週末"を過ごしていた寂しさや、やるせなさを歌った曲が多く、「そこにいるのは鬱状態の僕だ」(ジョン)というジョンのナイーヴな心の内を吐露した内容になっている。だからこそ、ジョンにとってヨーコがいかに大きな存在だったかが痛切に伝わってくる。 アルバム発売後、全米1位となった「真夜中を突っ走れ」で共演したエルトン・ジョンの、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでのコンサートに出演したジョンは、打ち上げパーティーで、別居中のヨーコと再会した。 |
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英 1975年2月21日発売/最高位6位 “失われた週末"を過ごしていたジョンが『心の壁、愛の橋』制作前に準備していたのは、念願だったロックンロールのカヴァー集だった。しかし、ジョンのソロ作のほとんどを手がけてきたプロデューサーのフィル・スぺクターが制作途中で録音テープを持ち逃げするなど、当時のジョンの荒れた生活を象徴するかのように、レコーディングは難航を極めた。 しかし、ジョンは苦難を乗り越え、スペクターらとの酔いどれセッションのなかから辛うじて使える音源と、『心の壁、愛の橋』発売後に自らのプロデュースで改めて行なったセッションをもとにロックンロールのスタンダード曲集としてアルバム『ロックン・ロール』(75年)を完成させたのだった。 スタンダード曲集の制作は、ジョンにとっては寂しさを紛らわせるための気分転換でもあったのだろうが、慣れ親しんできたロックンロールに染まることで自分を取り戻そうという想いが心の中にはあったのかもしれない。名カヴァー「スタンド・バイ・ミー」や「ビー・バップ・ア・ルーラ」「スリッピン・アンド・スライディン」などには、そんなジョンの想いが反映されているようにも思う。 75年10月、35歳の誕生日にショーンが生まれ、「エンパイア・ステイト・ビルよりもハイな気分だ」と喜びを露にしたジョンは、76年に入りレコード会社との契約を更新せず、5年間の“主夫生活"へと入っていった。 |
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英 1980年11月17日発売/最高位1位 「音楽の本質とは、突き詰めて言えばコミュニケーションとシンプルさだ」。 5年間の主夫生活を経てジョンが音楽について出したひとつの結論はこうだった。そして80年8月、ジョンは、NYのヒット・ファクトリーでニュー・アルバムのレコーディングを開始した。その年の6月に息子ショーンを連れてバミューダを訪れた際、航海中に船長が病気で倒れてしまったため、ジョンは自ら舵を取り、九死に一生を得たというが、新作は、まさに一度死にかけたジョンが“再生"して臨んだものだったのである。 「75年には書けなかった曲だ。この5年間のおかげで、自分自身のイメージから解放された。意識せずに再び曲が書けるようになったのは喜び以外のなにものでもない」とジョンが言っていたニュー・シングル「スターティング・オーヴァー」(80年)は、50年代のロックンロールを思わせるシンプル極まりない音作りだった。 続くアルバム『ダブル・ファンタジー』(80年)は、初ソロ作の『ジョンの魂』が生身を曝け出したジョンがソロへと踏み出しすための第一歩だったとするならば、主夫生活を経てヨーコとともに羽ばたいていくための希望に満ちた再出発を高らかに宣言したアルバムでもあった。 「ウォッチング・ザ・ホイールズ」「ウーマン」をはじめ、ビートルズを懐に入れつつも80年代を見据えた音作りは、完成度が高く、まさに復活作の手ごたえを十分に感じさせるものだった。しかし、発売後1ヵ月も経たずに遺作になってしまうとは誰が想像しえただろうか。 |
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英 1984年1月27日発売/最高位3位 ジョンは亡くなる2日前に「次のアルバムは半分できているし、その次のアルバムをどんな内容にするかもまとまりかけている」と語っていたが、その「半分できてい」たアルバムが 『ダブル・ファンタジー』と同時に制作が開始され、同じくジョンとヨーコの曲が対話形式で交互に登場する『ミルク・アンド・ハニー』(84年)だった。 「マイ・リトル・フラワー・プリンセス」や「グロウ・オールド・ウィズ・ミー」ではビートルズ時代の「ジュリア」(68年)以来ヨーコへの変わらぬ想いを歌に託し、「アイム・ステッピング・アウト」では主夫時代の生活ぶりを綴り、そしてシングルとなった「ノーバディ・トールド・ミー」では強力なメッセージを聴き手に届ける、いつもと変わらないジョンがいる。それだけに未完成で終わってしまったのが残念でならない。 「70年代はひどい時代だった。80年代はいい時代にしよう」と語っていたジョン。音楽活動を再開したジョンが40代をどんなふうに乗り越え、50代、60代、そして70代へと歩みを進めていくのか。音楽人生もまさにこれからだった。運命は、時に残酷なものだ。 しかし、せめてもの救いは、ここでも挙げてきたように、ジョンが数々の言葉も残してくれたことだ。80年12月8日、亡くなる直前のインタビューではこんな言葉を残している。 「僕が一緒に仕事をした芸術家はふたりしかいない。ポール・マッカートニーとオノ・ヨーコだ。とても良い選択だったと思っている」 |